統一による強大化と混乱、そして普墺戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 04:50 UTC 版)
「イタリア海軍」の記事における「統一による強大化と混乱、そして普墺戦争」の解説
イタリアの統一は19世紀後半、サルデーニャ王国によって成った。イタリア王国と名を改めたサルデーニャ王国は1861年3月17日、統一以前に存在した旧国家群の様々な組織を統合する作業を進め、その一環としてイタリア各地にあった旧国家(サルデーニャ王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国及び教皇領)の海軍部隊を統合し、イタリア王立海軍(レジーア・マリーナ、イタリア語: Regia Marina)を組織した。統一以前の諸国家が持っていた海軍装備は中々のもので、それら全てを遺産として相続した王立海軍は英仏の列強海軍を除けば戦列艦1隻、フリゲート9隻、コルベット4隻、帆走船7隻を数える強大な海軍力を有する一大勢力であった。 しかし海軍の合同によって齎された物は良いことばかりではなく、幾つかの解決すべき難点も存在した。まず一つ目に挙げられるのは装備の不均一性で、当然のことながら統一前の諸海軍は独自のドクトリンに基づいた艦艇の設計や運用を行っており、それらを一堂に集めた王立海軍は運用面で極めて不安定な部分を残すことになった。更に人材面でも同様のことが言え、それぞれが背景を持って栄達してきた各海軍の将官らは、自らがイタリア海軍の指導的な立場を得るべく激しい政治闘争を繰り広げた。取り分け統一元である旧サルデーニャ海軍派と、それと同等の海軍力を保有していた旧ナポリ海軍派の将官らの対立は激しく、イタリア王立海軍結成から20年後の1881年にリヴォルノ海軍兵学校に統合されるまで、海軍兵学校がナポリとジェノヴァの二か所に存在したという逸話がその激しさを物語っている。 また根本的な問題として当時のイタリアは近代戦争の要である重工業の力に乏しく、零落著しいスペイン王国と共に、フランス帝国・イギリス帝国・プロイセン王国・オーストリア帝国などの他の欧州主要国と大きく差を開けられていた。しかし海軍大臣カルロ・ペルサーノはこの問題に対して、国家百年の計としての計画を立てることなどせず、外国からの購入という短期的な手段に終始するのみであった。 こうした問題の内、少なくとも組織統一時の混乱は(士官学校の例の様に)時間によって解決される手合いの物であったが、完全なる統一を急ぐイタリア王国政府は国家統一から僅か4年後の1866年に早くも老大国たるオーストリア帝国との戦争を始めてしまった。普墺戦争と呼ばれるこの戦争で、前述のカルロ・ペルサーノ率いるイタリア海軍は、ペルサーノの指揮の拙さも手伝って苦い敗北を喫してしまう(リッサ海戦)。戦争自体はプロイセンの大勝によって勝利に帰したが、対オーストリアでの苦戦は多くの教訓を海軍に残した。
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