統一イタリアの首都
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 22:28 UTC 版)
ウィーン会議後のオーストリア帝国によるイタリア支配は独立達成にむけてイタリア人を奮起させたが、援軍とあおいだナポレオン3世によるイタリア占領はイタリア人の反発をまねき、1861年、イタリアの大部分はサヴォイア家のもとで統一をはたした(リソルジメント)。教皇の本拠地だったローマは1870年、フランス軍の撤退後、1871年にイタリア王国にローマ教皇領が併合されイタリアが統一され、ローマはフィレンツェに代わって統一イタリアの首都となった。 その後1930年代にはファシスト党の独裁者、ベニート・ムッソリーニがローマ郊外にローマ万国博覧会のための新都市、EUR(エウル)を建設したが、ムッソリーニ主導による第二次世界大戦へのイタリアの枢軸国としての参戦によりEURの拡大は一時的に中止となった。 1943年6月5日、ローマに戦火が及ぶことを避けるため首都防衛を担ってきたドイツ軍がローマ郊外へ撤収。同年7月、ムッソリーニ政権が倒れてバドリオ政権が誕生すると、秘密裏に連合国軍との間で停戦協定の交渉が始った。その中でローマは無防備地域を宣言するものの連合国側には無視され、ローマは空爆された。同年9月8日、連合国軍側がイタリアとの休戦を発表。ローマはファシストが徹底抗戦を図るために建国したイタリア社会共和国の首都となった。
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