イタリアの統一とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > イタリアの統一の意味・解説 

イタリアの統一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:31 UTC 版)

近代における世界の一体化」の記事における「イタリアの統一」の解説

詳細は「サルデーニャ王国」、「リソルジメント」、および「未回収のイタリア」参照 ローマ帝国滅亡して以来都市国家乱立していたイタリア半島でも統一機運高まっていた。1848年ローマ共和国失敗後、イタリア統一主導したのは、ピエモンテトリノ首都定めていたサルデーニャ王国だった。 ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、カミッロ・カヴール1852年首相に迎え王国の近代化推進した自由主義的な憲法制定し教育充実工業化推進交通網の整備行った。ただ、独力近代化だけでは、イタリア統一をすることもままならず当時大国との同盟関係締結することが必要となったクリミア戦争では、イギリスフランス同調する形で、ロシア宣戦布告し血を流すことによって、今後イタリア統一向けて下準備とした。 プロンビエールの密約1858年に結ぶと、サルデーニャは対オーストリア戦争邁進経済的に豊かなロンバルディア中部イタリアパルマモデナトスカーナ次々と併合した中部イタリア進出の際には、サヴォイアニースフランス割譲した同盟国フランス見返り捧げる形でありながらも、半島統一推進していった。 一方赤シャツ千人隊呼ばれる私兵用いてイタリア統一貢献したのがジュゼッペ・ガリバルディである。1860年両シチリア王国を滅ぼすとガリバルディは、サルデーニャ王国征服地を献上し、自らは表舞台から退場した1861年イタリア王国建国宣言されヴェネツィア及び教皇領を除くイタリア半島統一達成された。1866年普墺戦争の際には、プロイセン側に立ち、オーストリア交戦状態に入りヴェネツィアイタリア王国組み入れることに成功1870年普仏戦争フランス敗れるとローマ進駐していたフランス軍撤退したため、ローマ占領成功したローマ占領は、イタリア国家とローマ法王断絶意味し、この状態が改善されるのは、20世紀ラテラノ条約を待たなければいけなくなった当時教皇ピウス9世は、自らを「バチカンの囚人」と称したその後統一イタリアは、国内南北格差ピエモンテロンバルディア所属する北部地方経済的に豊かであり、その状況21世紀になった今も変わっていない)を内包しつつも、植民地獲得競争参入していった。その対象は、ソマリアリビア向けられていったまた、未回収のイタリア呼ばれる地方残っていたため、三国同盟普仏戦争後、オーストリア締結したとはいえ、常に国境問題抱えていたため、第一次世界大戦の際のイタリア連合国側参戦へとつながる原因となった

※この「イタリアの統一」の解説は、「近代における世界の一体化」の解説の一部です。
「イタリアの統一」を含む「近代における世界の一体化」の記事については、「近代における世界の一体化」の概要を参照ください。


イタリアの統一(1815年 - 1861年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 00:04 UTC 版)

イタリアの歴史」の記事における「イタリアの統一(1815年 - 1861年)」の解説

詳細は「イタリア統一運動」を参照 イタリアフランス国境にある山岳地帯サヴォイア領域とするサヴォイア公国は、イタリアにおける領土拡大しサルデーニャ島ピエモンテ北西部領有するまでになった。しかし、1796年フランスナポレオン1世イタリア侵略するとこの状況劇的に変わったチザルピーナ共和国のようなナポレオン北イタリア建国した国々は、実質的にフランス衛星国に過ぎなかったため、イタリア人の間に民族主義的運動勃興する。 これらフランス衛星国ナポレオン没落後生き残ることができず、ウィーン会議によって、北東部の旧ヴェネツィア共和国領と旧ミラノ公国ロンバルディアオーストリア帝国属国であるロンバルド=ヴェネト王国となり、旧ジェノヴァ共和国を含む北西部サルデーニャ島サルデーニャ王国半島南部シチリア島両シチリア王国トスカーナ大公国教皇領、その他中央部いくつかある小国というようにイタリア分割された。 保守反動的なウィーン体制に対して各地自由主義運動高まった1820年スペイン立憲革命起こったことを契機として、ブルボン家統治にあった両シチリア王国ナポリ革命ナポリ蜂起)、シチリア革命シチリア蜂起)が起こった。この革命内部対立オーストリア軍介入によって失敗終わったが、翌1821年サルデーニャ王国ピエモンテ革命ピエモンテ蜂起)が起こった。しかし、この蜂起失敗終わった1830年フランス7月革命は、イタリアにも及び、カルボナリ各地革命起こした。しかし統一理想には程遠くオーストリアによって翌年には鎮圧されてしまう。しかしカルボナリ理想は、後のイタリア統一戦争へと引き継がれていった1848年にはイタリア各地で「1848年革命」が勃発し革命派の軍がサルデーニャカルロ・アルベルトのもとに集結したが(第一次イタリア独立戦争イタリア語版フランス語版英語版))、最終的にヨーゼフ・ラデツキー率いオーストリア軍敗れヴェネツィア臨時政府解散させられてしまった。 このような試み何度失敗終わったのち、情勢1859年から1861年にかけて急速に転換した1859年サルデーニャ王国首相カヴールは、フランス皇帝ナポレオン3世との会談により同盟結んでオーストリア帝国攻撃第二次イタリア独立戦争)、ロンバルディア奪還するとともにトスカーナを含むイタリア中部の諸領域併合にも成功した1860年ジュゼッペ・ガリバルディ千人隊赤シャツ隊)を創設して、シチリアイタリア南部遠征向かいブルボン朝の軍を何度も打ち破って征服成功した。そしてその領土サルデーニャヴィットーリオ・エマヌエーレ2世無償献上しテアーノの握手イタリア語版))、イタリア大部分サルデーニャ王の元に帰せられた(イタリア統一戦争)。1861年統一国家としてのイタリア王国成立宣言される

※この「イタリアの統一(1815年 - 1861年)」の解説は、「イタリアの歴史」の解説の一部です。
「イタリアの統一(1815年 - 1861年)」を含む「イタリアの歴史」の記事については、「イタリアの歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「イタリアの統一」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「イタリアの統一」の関連用語

イタリアの統一のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



イタリアの統一のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの近代における世界の一体化 (改訂履歴)、イタリアの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS