イタリアの統一
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「近代における世界の一体化」の記事における「イタリアの統一」の解説
詳細は「サルデーニャ王国」、「リソルジメント」、および「未回収のイタリア」を参照 ローマ帝国が滅亡して以来、都市国家が乱立していたイタリア半島でも統一の機運が高まっていた。1848年のローマ共和国失敗後、イタリア統一を主導したのは、ピエモンテのトリノを首都に定めていたサルデーニャ王国だった。 ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、カミッロ・カヴールを1852年に首相に迎え、王国の近代化を推進した。自由主義的な憲法を制定し、教育の充実、工業化の推進、交通網の整備を行った。ただ、独力の近代化だけでは、イタリア統一をすることもままならず、当時の大国との同盟関係を締結することが必要となった。クリミア戦争では、イギリス、フランスと同調する形で、ロシアに宣戦布告し、血を流すことによって、今後のイタリア統一に向けての下準備とした。 プロンビエールの密約を1858年に結ぶと、サルデーニャは対オーストリア戦争に邁進。経済的に豊かなロンバルディア、中部イタリアのパルマ、モデナ、トスカーナを次々と併合した。中部イタリア進出の際には、サヴォイア、ニースをフランスに割譲した。同盟国フランスに見返りを捧げる形でありながらも、半島統一を推進していった。 一方、赤シャツ千人隊と呼ばれる私兵を用いて、イタリア統一に貢献したのがジュゼッペ・ガリバルディである。1860年、両シチリア王国を滅ぼすとガリバルディは、サルデーニャ王国に征服地を献上し、自らは表舞台から退場した。1861年、イタリア王国の建国が宣言され、ヴェネツィア及び教皇領を除くイタリア半島の統一が達成された。1866年の普墺戦争の際には、プロイセン側に立ち、オーストリアと交戦状態に入り、ヴェネツィアをイタリア王国に組み入れることに成功、1870年の普仏戦争でフランスが敗れるとローマに進駐していたフランス軍が撤退したため、ローマ占領に成功した。ローマ占領は、イタリア国家とローマ法王の断絶を意味し、この状態が改善されるのは、20世紀のラテラノ条約を待たなければいけなくなった。当時の教皇ピウス9世は、自らを「バチカンの囚人」と称した。 その後、統一イタリアは、国内の南北格差(ピエモンテやロンバルディアが所属する北部地方が経済的に豊かであり、その状況は21世紀になった今も変わっていない)を内包しつつも、植民地獲得競争に参入していった。その対象は、ソマリアやリビアに向けられていった。また、未回収のイタリアと呼ばれる地方が残っていたため、三国同盟を普仏戦争後、オーストリアと締結したとはいえ、常に国境問題を抱えていたため、第一次世界大戦の際のイタリアの連合国側参戦へとつながる原因となった。
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イタリアの統一(1815年 - 1861年)
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「イタリアの歴史」の記事における「イタリアの統一(1815年 - 1861年)」の解説
詳細は「イタリア統一運動」を参照 イタリアとフランスの国境にある山岳地帯のサヴォイアを領域とするサヴォイア公国は、イタリアにおける領土を拡大しサルデーニャ島やピエモンテの北西部を領有するまでになった。しかし、1796年にフランスのナポレオン1世がイタリアを侵略するとこの状況は劇的に変わった。チザルピーナ共和国のような、ナポレオンが北イタリアに建国した国々は、実質的にはフランスの衛星国に過ぎなかったため、イタリア人の間に民族主義的な運動が勃興する。 これらフランスの衛星国はナポレオンの没落後生き残ることができず、ウィーン会議によって、北東部の旧ヴェネツィア共和国領と旧ミラノ公国のロンバルディアはオーストリア帝国の属国であるロンバルド=ヴェネト王国となり、旧ジェノヴァ共和国を含む北西部とサルデーニャ島はサルデーニャ王国、半島南部とシチリア島は両シチリア王国、トスカーナ大公国、教皇領、その他中央部にいくつかある小国というようにイタリアは分割された。 保守反動的なウィーン体制に対して、各地で自由主義運動が高まった。1820年にスペイン立憲革命が起こったことを契機として、ブルボン家の統治下にあった両シチリア王国でナポリ革命(ナポリ蜂起)、シチリア革命(シチリア蜂起)が起こった。この革命は内部対立とオーストリア軍の介入によって失敗に終わったが、翌1821年にサルデーニャ王国でピエモンテ革命(ピエモンテ蜂起)が起こった。しかし、この蜂起も失敗に終わった。1830年のフランス7月革命は、イタリアにも及び、カルボナリが各地で革命を起こした。しかし統一の理想には程遠く、オーストリアによって翌年には鎮圧されてしまう。しかしカルボナリの理想は、後のイタリア統一戦争へと引き継がれていった。1848年にはイタリア各地で「1848年革命」が勃発し、革命派の軍がサルデーニャ王カルロ・アルベルトのもとに集結したが(第一次イタリア独立戦争(イタリア語版、フランス語版、英語版))、最終的にヨーゼフ・ラデツキー率いるオーストリア軍に敗れ、ヴェネツィア臨時政府も解散させられてしまった。 このような試みが何度か失敗に終わったのち、情勢は1859年から1861年にかけて急速に転換した。1859年、サルデーニャ王国の首相カヴールは、フランス皇帝ナポレオン3世との会談により同盟を結んでオーストリア帝国を攻撃(第二次イタリア独立戦争)、ロンバルディアを奪還するとともに、トスカーナを含むイタリア中部の諸領域の併合にも成功した。1860年、ジュゼッペ・ガリバルディは千人隊(赤シャツ隊)を創設して、シチリアやイタリア南部へ遠征に向かい、ブルボン朝の軍を何度も打ち破って征服に成功した。そしてその領土をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に無償で献上し(テアーノの握手(イタリア語版))、イタリアの大部分はサルデーニャ王の元に帰せられた(イタリア統一戦争)。1861年、統一国家としてのイタリア王国の成立が宣言される。
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