イタリアの衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 06:25 UTC 版)
東ローマ帝国のイタリア統治の特徴は極端な重税であり、これはローマ帝国から引き継がれた徴税制度によるものである。ディオクレティアヌス帝によって定められたカピタティオ・ユガティオ(capitatio-jugatio)と呼ばれる制度では、住民が納めるべき税はあらかじめ定められており、戦災や飢饉、疫病その他の被害による収穫の減少は考慮されず、特に酷い災害を受けた場合にのみ、一時的な減税が許されるだけであった。 当時の東ローマ帝国は長期間に渡る戦争だけでなく、542年に発生した黒死病による経済的な打撃も受けており、税収を火急に必要としていた。 さらには腐敗した官吏による汚職も住民や国家を蝕んでいた。プロコピオスは『戦史』ではユスティニアヌスを賞賛していたが裏ノートである『秘史』では、「彼(ユスティニアヌス)は、通称会計検査官と呼ばれる役人をイタリアに派遣し、すぐにすべての物をひっくり返し、破壊してしまった」と非難している。このような行為は、ユスティニアヌス帝の法律に反するものであったが、根絶することはできず、教皇グレゴリウス1世はシチリア、サルデーニャ、コルシカにおける徴税官の不正に抗議している。 この戦争は数世紀に渡りイタリアに悪影響を与え、戦闘の多くが都市包囲戦だったために都市中枢部の放棄と後背地への移動が促され、5世紀から始まっていた都市部の衰退と農村化のプロセスが完了することになる。 568年のランゴバルド族の侵入では、半島全域に略奪と破壊が広まり、歴史家ラヴェニャーニは「ゴート戦争にも劣らぬものであった」と述べている。ランゴバルド族は勝者の権利として、ローマ人たちを過酷に扱い、ランゴバルド族からの災厄を避けるために沼沢地に避難した人々がヴェネツィアをつくったとされる。しかしながら、アウタリの時代にランゴバルド族統治下のローマ人の扱いは改善し、リウトプランドの時代にほぼローマ化され、蛮族の風習は放棄されてローマ的な生活が採用されるようになった。ランゴバルド族統治下の8世紀頃には人口と経済面での回復の兆しが現れ、9世紀のカロリング時代に一応の復興が見られるようになり始めるが、完全な復興は11世紀のコムーネ(自治都市)の勃興まで待たねばならない。
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