イタリアの進撃と経済制裁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 01:21 UTC 版)
「第二次エチオピア戦争」の記事における「イタリアの進撃と経済制裁」の解説
1935年10月2日、ムッソリーニはローマにおいてエチオピアへの侵攻を宣言し、ラジオ放送によって全土に伝えられた。10月3日、エミーリオ・デ・ボーノ将軍を総司令官とするイタリア軍部隊10万人とエリトリア軍部隊2万5千人が宣戦布告なしにエリトリアから侵攻を開始した。イタリア軍部隊の大半は、前述のアスカリと呼ばれる土着民の傭兵が占めていた。同時にソマリランドからロドルフォ・グラツィアーニ将軍の支援軍が攻勢を開始、こちらはデ・ボーノ将軍の戦力より実数は少なかったが、本国兵で編成された機械化部隊が中核を占めていた。イタリア軍は各地で快進撃を続け、10月6日にアドワ、15日にアクスムを占領し、アクスムにおいて歴史的建造物であるオベリスクを略奪した。 10月7日、国際連盟理事会はイタリアを侵略者として制裁を準備する採択を可決し、10月11日にイタリアの撤退がなければ国際連盟規約第16条に基づく制裁を発動することを51カ国の投票で決定、11月18日に経済制裁が実施されたが、石油などの重要な戦略物資には適用されることはなかった。これは、たとえ禁止したとしても、イタリアは国際連盟に加盟していないアメリカから購入することが可能であるから意味がないとする英仏の宥和政策に基づく主張が背景にあった。また、英仏によって和平案(ホーア・ラヴァル案)が立案されたが、基本的にイタリアによるエチオピアの植民地化を容認する内容で、あまりにイタリア寄りの内容であったため、エチオピアはこの受諾を拒絶した。
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