イタリアの脅迫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:00 UTC 版)
当時、ナチス・ドイツ台頭によりヨーロッパの風向きは怪しくなり、メタクサスは中立を維持することにより切り抜けようとしていたが、イタリアのアルバニア侵攻が発生、さらにイタリアはギリシャへのイタリア軍の駐留と枢軸側への参加を通告した。1940年10月28日、メタクサスがこれを拒否したため、イタリア軍はギリシャへの侵攻を開始した。メタクサスはイギリスへの支援を要請、さらにギリシャ軍はこれを押し戻し、一旦はアルバニアまで攻め込んだが、1941年4月、この事態を重く見たナチス・ドイツはギリシャへ宣戦布告、ギリシャの戦いが生じることとなり、ギリシャ軍・イギリス連邦軍は各所で撃破された。その最中、メタクサスは病死、さらに後を継いだアレクサンドロス・コリジスも戦局が悪化するなか自殺した。1941年4月27日、ドイツ軍がアテネに入城したことにより、国王、およびコリジスの後を継いだ首相エマヌエル・ツデロスらはクレタ島へ撤退したが、さらにクレタ島の戦いにおいてギリシャ・イギリス連邦軍らは撃破され、国王、ツデロスらはカイロへと亡命した。 そしてギリシャはドイツ・イタリア・ブルガリアらによって三分割占領され、苦難の日々を送ることとなる。
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