イタリアの脱落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 08:04 UTC 版)
(イタリアの降伏)、(ドデカネス諸島の戦い) (ミンスミート作戦)も参照 1943年5月、北アフリカでの戦いは終わり、7月10日、シチリア島に連合国軍が上陸。25日、イタリアで政変が起こりムッソリーニは失脚した。9月3日、ついにイタリア半島に連合国軍が上陸すると、9日にイタリアは降伏し、さらに連合国側へ寝返り、同時にドイツに制圧されて二つに分断された。 これより前、バルカン半島では現地の占領業務はドイツ軍とイタリア軍の共同で行われていたが、降伏を受け同地のイタリア軍は武装解除された。折しも連合国軍はドイツに対し、次の大規模上陸はギリシャで行われる旨の偽情報を掴ませることに成功していた時であり、以後、ドイツは事実上単独で、いつ来るか分からない連合国軍の上陸作戦に備えてバルカン半島の長大な海岸線を防衛することを強いられた。また、降伏したイタリア軍の武器弾薬はあらゆるゲリラ、レジスタンス、パルチザンの手にも渡り、彼らの火力を増強した。そしてこれ以降、ドイツ軍はギリシャ、ユーゴスラビアとアルバニアで、より一層困難なゲリラ討伐戦を続けることを強いられるようになった。 1943年8月1日、連合国軍はドイツの最重要戦略拠点だったルーマニアのプロエスティ油田を空襲した。戦況が枢軸側に不利になっているのは明白だったが、どの国も、最初は自国に都合のいいように利用しようとしたはずのドイツに、もはや手を切ることなどできないほどに取り込まれてしまっていた。 この間、連合国軍首脳は会談を重ね戦後のヨーロッパの勢力分けを行っていた。1944年10月9日、モスクワでのチャーチルとスターリンの直接会談により、バルカン半島諸国はギリシャはイギリス、ユーゴスラビアは折半、他はソ連の勢力圏とする合意(パーセンテージ協定)がなされた。
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