ゲリラ討伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/04 04:21 UTC 版)
同月10日午後、日本軍のボルネオ守備軍(山脇司令官)が討伐命令を発し、11日以降日本軍はクチンから2個中隊をアピへ増派、ジェッセルトン・ホテルを警備隊本部とし、アピ市内を占拠した。11日夜から12日朝にかけて日本軍はイナナム(英語版)付近に集結していたゲリラ軍を攻撃、12~14日にかけて同様にコタ・ブルド、トゥアランなどを攻撃した。ゲリラ軍の武器は刀や槍が主で火力に劣り、後続の蜂起もなかったため、守勢一方となり、ゲリラは蜂起後数日でジャングル内での逃亡生活を余儀なくされた。 日本軍は、10月中旬にスルーク島の指導者パングリマ・アリー(英語版)(Panglima Ali)を逮捕し、同月末に同島の島民114人中54人を殺害した。同じ頃ウダール島では島民64人中29人が殺害され、女性15人が別の島へ移された。またダナワン島(英語版)では男性全員が殺害され、女性が別の地へ送られた。 11月中旬にゲリラの本拠地が突き止められ、日本軍の急襲を受けて壊滅した。山中に潜伏したゲリラの一部は頑強に抵抗し、日本軍側にも20名の戦死者を出したが、12月19日に郭益南らが捕らえられ、事件は収束へ向かった。 この間西海州の各地で日本軍は「容疑者狩り」を行い、多数の華僑や現地住民が取り調べを受け、反乱に加担した容疑で殺害された。
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