苦難の日々
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悲嘆に暮れて家を帰るトネを、家族たちは優しく迎えたものの、トネは「脳の病」とあらぬ理由をつけられ、泣き寝入りの日々が続いた。 やがてトネは、実家での生活で徐々に体調と心を回復させていった。しかし「脳の病で女学校を退学させられた」との噂は町中に広がった。それまで親しくしていた人々は、一変して「脳の病がうつる」などと言って、辛くあたるようになった。 後にトネに縁談が来た。相手は呉服屋の男性であり、トネに「洋服を着せたらさぞ似合うだろう」というのが、見初めた理由であった。しかしトネはその言葉に「女性は着せかえ人形じゃない。私は飾り物じゃない。女を自分の所有物とみなすような人は好きになれない」と、縁談を断った。このことはまたしても街の噂となり、「呆れてものが言えない」「やはり脳の病なんだろう」などと言われた。誹謗中傷が続き、トネは地元ですら疲弊する生活を送り続けた。
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苦難の日々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 19:01 UTC 版)
菊栄たち一同は、伯父の家で労働力として利用された。菊栄は9歳の頃から、毎朝4時に起床、米つき、薪割り、農業。その後に登校し、学校を終えて帰宅後も、縄ない、俵編み、草鞋作りと、わずかの休みも許されない生活を送り続けた。仕事の後は伯父の肩もみ、就寝前には竹刀で数百回の素振りの日課を強いられていた。 食事は、朝はわずかの米粒が混ざった芋粥、昼は芋や大根の葉の混ざった麦飯、晩は醤油粕の雑炊という、粗食の毎日だった。副食は梅干しと沢庵のみで、野菜が付けばご馳走の部類で、魚類を口にできるのは正月と祭事のみだった。もっとも当地の食料事情では、戦後でも豆腐を買った程度で羨ましがられたといい、醤油粕を口にできた菊栄はまだ良い方との声もある。それでも、岡上家の食事ではお頭付きの魚が当然だった菊栄にとっては、辛い毎日であることには変わりなかった。当時の生活を「NHKドラマ『おしん』そこのけの辛酸」とする声もある。 そうした生活の辛さから、菊栄は後に自著で、頻繁に乙女のもとを訪れたと著している。岡上家と伯父の家では往復50キロメートルの距離があり、履物といえば竹の皮や藁の時代に、頻繁にその距離を往来したことから、菊栄の思いの一念が偲ばれる。1879年(明治12年)の乙女の死去に際しては、菊栄は乙女危篤の報せを耳にし、彼女のもとへ向かったものの、コレラ流行による交通遮断のため、乙女を看取ることは叶わずに終わった。乙女との死別により、菊栄は孤児としての悲しみを知ることなった。
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苦難の日々
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「エドワード・ホッパー」の記事における「苦難の日々」の解説
最後のヨーロッパ旅行から戻った後、ホッパーはニューヨークで部屋を借り、そこで自分のスタイルを確立するのに苦心した。生計を立てるために仕方なく、古巣のイラスト業に戻った。フリーランサーであったため、仕事を得るために雑誌社や代理店のドアを叩き、仕事を頼んで回らなければならなかった。「何を描くか決めるのが難しい。それを見つけることが出来ないまま何ヶ月も過ごしてしまうことがある。とても遅いんだ」と苦悩を募らせた。仲間のイラストレーターのWalter Tittleは、ホッパーのその時の様子を「苦しんでいる...長い間克服できない無気力に苦しんでいて、イーゼルの前に何日も座って無力な不幸を感じ、呪文を破ることができなかった。」と語っている。 1912年、30歳のホッパーはインスピレーションを求めてマサチューセッツ州のグロスターを旅し、アメリカで自身の最初の屋外絵画を制作した。これはのちに連作となる最初の灯台の絵だった。 1913年の美術展覧会で、ホッパーは昔描いた自画像を塗りつぶして描いた絵画[Sailing(1911)]を販売し、初めて画家として250ドルを得た。31歳のホッパーはこの実績が今後につながることを望んだが、彼のキャリアはその後も何年もうまく行くことはなく、ニューヨークの小さな会場でのグループ展に参加し続けた。同じ年に父親が亡くなった直後、その後の人生を過ごすこととなるマンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジにあるワシントン・スクエアのノース・アパートメントに転居した。 翌年、いくつかの映画ポスターを製作し、映画会社のプロモーションを行う仕事を委託された。ホッパーはイラスト作品は好きではなかったが、映画や演劇の熱狂的ファンだった。どちらも絵の主題として扱っており、それぞれが彼の作風に影響を与えている。 1915年、ホッパーは油絵に行き詰まり、エッチングに目をつけた。1923年までに約70作品のほとんどをエッチングで制作し、パリとニューヨークの両方の都市の風景の多くを制作した。また、時おり商業作品の製作を続けながら、戦争運動のためのポスターをいくつか作成した。余裕があるときにはニューイングランド、特にオガンキットの芸術村とモンヒガン島を訪れ、屋外の水彩画を制作した。 憤悶とした数年間を経て、ホッパーはいくらか認められ始めた。1918年に、戦争ポスター「Smash the Hun」で米国海運委員会賞を受賞した。更に1917年に独立アーティスト協会、1920年と1922年にはホイットニー美術館の前身であるホイットニースタジオクラブで個展が開かれた。 1923年に、エッチングに対してエッチャーズシカゴ協会からローガン賞とW. A.ブライアン賞の2つの賞を受賞した。 1920年代初頭、大衆は、[エル・トレインの夜(沈黙の夫婦)]、[夕方の風(孤独な女性)]、[キャットボート(単純な航海シーン)]のように、彼の後期のテーマのいくつかを表現した。この時期の注目すべき2つの油絵は、[ニューヨークインテリア(1921)]と[ニューヨークレストラン(1922)]である。ホッパーはまた、その後多く描くこととなる「窓」の絵画2つ、「Girl at Sewing」と「月光のインテリア」を描いた。どちらもアパートの窓の近くの人物(着衣または裸体)を見ているか、外から見ている視点から見たものである。
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