苦難と事故を乗り越えて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 23:10 UTC 版)
1981年(昭和56年)1月15日、見物客とウメ子の間を隔てる空堀(モート)に落下。1時間半かけて引き揚げられた。これは、お客さんがエサをあげようとしてウメ子が目一杯鼻を伸ばした際に、足を滑らせてしまったものである。1957年(昭和32年)頃と1960年代にもウメ子は同様に空堀に転落したことがある。なお当初の放飼場は、ウメ子が鼻を伸ばせばお客さんのところまで届き、エサを受け取れるほどの距離であった。1967年(昭和42年)、毎日新聞の投書欄に一般市民から「酔漢が手を伸ばし、ウメ子の鼻と戯れている」写真が投稿され「危険なので柵の距離をもっと後退させたらどうだろうか」との意見が載ったりもした。このため、1970年代中頃に柵の位置を後退させ、運動場外側の壁をやや高くする措置が採られている。また1970年代までプールの壁が取り払われ、ウメ子が堀に降りてこられるようになっていた。ウメ子は堀の下に落ちたエサ(お客さんが投げ入れたお菓子やミカン等)を拾って食べていた(飼育員談)。 ウメ子の住まいは来園当初はゾウ舎のみで、柵で囲まれた広場に鎖でつないで飼育されていた。1952年(昭和27年)にプール付きの空堀で囲まれた総コンクリート製運動場が整備された。当時の金額で約40万円という大金を使って造られたものだった。お客さんと運動場を隔てる柵は1960年(昭和35年)頃までは木製、それ以降からは鉄製に変えられた。1989年(昭和64年/平成元年)にその柵は一部改修され、ペンキも銀色から紅色に塗り替えられた。また柵と堀の間の観葉植物も入れ替えられたほか、長年周りに植えられていたヤシの木2本も伐採された。運動場は1952年(昭和27年)の完成から2009年(平成21年)にウメ子が亡くなるまで新築されることはなかったが、ところどころ改修はなされていた。プールの階段横の壁が撤去されて棒だけになったほか、ゾウ舎は当初は飼育員の事務室も隣接していたが後に撤去、ゾウ舎のみとなった。また1970年(昭和45年)頃、若かったウメ子が壁に突進してしまい、壁の一部が壊れたことがあった。このためにゾウ舎の壁と運動場の間についたてを設置し、飼育員が緊急時に避難できる仕組みができた。 ゾウ舎の中も、2000年(平成12年)頃に高齢となったウメ子が転倒して起き上がれなくなった時に備えてクレーンを吊るすことができる櫓を設置、また人の万が一の侵入を防ぐために鉄製の頑丈な柵で窓が囲われた。 1993年(平成5年)10月8日午前8時35分頃、ウメ子のゾウ舎で清掃作業をしていた男性飼育員(当時34歳)が死亡する事故が発生した。当時、敷き藁を取り替える作業を飼育員2人が行っていたが、その際、ウメ子が一人の飼育員に近づいて行った。直後に飼育員が頭から血を流して倒れていたという(死因は脳挫傷)。もう一人の飼育員はウメ子の後ろにいたため、事故の瞬間は見えなかったという。ウメ子に突き飛ばされるなどしたか、自分で足を滑らせたかのどちらかとされたが、小田原署の調べでははっきりした原因は分からなかった。しかしウメ子が飼育員を踏んだり、傷つけたりした跡はなかったという。ウメ子の処分は検討されなかったが、事故当日はウメ子は運動場に出されることはなかった。この事故をめぐって翌年、遺族が「小田原動物園には飼育マニュアルが作成されておらず、安全管理に不備があった」として小田原市を相手取り、慰謝料などを求める裁判を起こした。小田原市側は「文書化されたマニュアルは作成していなかったが、口頭で危険な点等の注意すべき点は伝えていた。ゾウの飼育には必ずベテランと一緒に作業させていた」と反論した。この裁判は後に小田原市と遺族の間で和解が成立している。
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