事故当日
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「箒川鉄橋列車転落事故」の記事における「事故当日」の解説
事故発生当日の1899年(明治32年)10月7日、この日は南方洋上で発生した台風が本州に接近していた。福島行きの第375列車は11時に上野駅を発車し、特段台風の影響を受けてはいなかったものの対向列車との行き違いの関係で約50分遅れで宇都宮に到着した。このとき宇都宮で観測された風速は9メートルだったため、第375列車は運転を続けた。第375列車の後部車掌が証言したところによると、矢板駅を発車したのは16時40分頃であった。 矢板駅発車後、第375列車は箒川鉄橋にさしかかった。渡り始めたところで北西からの突風が列車の左側面に吹きつけ、機関士が後方を見たところ、8両目に連結していた無蓋貨車のシートが強風に煽られて吹き飛ばされかけていた。続いて1等客車の車体が急激に右方向に張り出したのを目視して、警笛を吹鳴し機関車のブレーキをかけた。機関士はその際に強い衝撃を感じたといい、後にこの時に貨物緩急車の連結器が切断したと思うと証言している。 第375列車は混合列車で、機関車2両、貨車11両、その後に客車(4輪単車)7両を連結していた。編成は、次のとおりであった。 牽引機関車(イギリス・ベイヤー・ピーコック社製テンダー機関車)1両 - 回送機関車(イギリス製タンク機関車)1両 - 空貨車3両 - 積貨車7両 - 貨物緩急車(亥120) - 3等緩急車(ハ28) - 3等客車(ハ179) - 3等客車(ハ249) - 1等客車(イ3) - 2等客車(ロ17) - 3等客車(ハ275) - 3等緩急車(ハニ107) (太字体の車両が転落車両) 転落した車両は、以下の通りの状況であった。 亥120 - 第9号橋脚の傍らに転落横転し大破。 ハ28 - 亥120とほぼ同じ状態でその横に横転大破。 ハ179 - 屋根が吹っ飛び車体下部構造は河底に埋没。 ハ249 - 第8号橋脚の約27メートル下流に流される。屋根を残しその他粉砕。 イ3 - 第7、8号橋脚の中間から最初に転落。25メートル下流に車体下部構造、さらに18メートル先に屋根を残しその他粉砕。 ロ17 - 第7号橋脚の傍らの中州の上で圧壊。 ハ275 - 第7号橋脚の少し先に転落、3ブロックに大破。 ハニ107 - 前車(ハ275)の上に転落し、大破。 事故当日の箒川は平時に比べて1メートルほど増水していて、貨車1両と客車7両は急流の中に転落し、木造の客車は破損がひどかった。転落を免れた機関車2両と貨車10両は、機関車1両のみのブレーキではあまり効かずに鉄橋から140メートルほど進行した地点でようやく停車し、その時刻は17時頃だったと伝わる。第375列車の機関手は機関助手に後を任せて野崎駅に走り、事故の一報を伝えた。この事態を知った野崎駅長は矢板駅あてに電報を打ったが、暴風のために混線していて17時20分頃にやっと架電できた。 第375列車の後部車掌は事故で負傷していたが矢板駅まで約3.5キロメートルの道のりを走り抜き、矢板駅長に事故の詳細を報告した。通信網が未発達な時代のため、矢板駅から宇都宮駅に連絡し、さらに宇都宮駅から日本鉄道本社に事故の知らせが伝えられた。 なお、10月9日になって中央気象台から発表された事故発生当日(10月7日)の気象状況は、以下のとおりであった。 南方洋上で発生した台風は、10月7日早朝には四国沖を北東に進み、その日正午に遠州灘を過ぎて4時10分に伊豆半島を横断し、その後相模灘に抜けた。このときの伊豆半島南端の長津呂測候所では、約952.6ヘクトパスカルという極めて低い気圧を観測していた。台風はさらに横須賀の南方から東京湾を北上する経路を進み、15時20分に東京 - 千葉間に上陸した。16時には銚子の北から鹿島灘に抜けて速度を増し、同日22時に浦河付近から北海道に上陸した。 この台風の主要都市における最低気圧と最大風速は、次の表のとおりである。なお、時刻は最低気圧を記録した時刻である。 主要都市における最低気圧と最大風速地名高知和歌山津横須賀布良銚子宇都宮福島時刻8:00 10:00 11:00 15:00 15:00 16:00 16:00 16:00 最低気圧(hp)989.6 989.3 963.5 955.8 961.3 963.2 974.7 976.8 最大風速(m/s)N27 NW14 N23 SE23 SE54 N53 NW9 NW18 この気象状況について、『続 事故の鉄道史』(1995年)で第375列車の事故について取り上げた佐々木冨泰は宇都宮の風速が意外に低いことと、その観測時刻が第375列車の発車時刻にほぼ一致していることの2点を指摘し、「駅長、機関手ともに台風をあまり気にせず出発したことがわかる」と記述している。網谷りょういちも『日本の鉄道碑』(2005年)で同事故を取り上げ、宇都宮で観測された風速の件について「宇都宮駅で列車を抑止する理由はなく、同駅の過失はない」としている。ただし網谷は事故現場付近の地形について言及し、「溝のようになって風の通り路となっている箒川橋梁が、ある一定の方角から風が吹いた時に、限界値以上の風が生じたのだろう」と推定している。
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