エリアナの死、そして苦難の日々とは? わかりやすく解説

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エリアナの死、そして苦難の日々

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 01:52 UTC 版)

ナデジダ・パヴロワ (1905年生のバレエダンサー)」の記事における「エリアナの死、そして苦難の日々」の解説

1941年エリアナ日本陸軍恤兵部の要請によって中支慰問旅立つことになった出発3月10日のことで、南京拠点として兵士たちの前で『瀕死の白鳥』や即興で『海ゆかば』、『さくらさくら』などを披露した慰問の旅はきつい日程続いたため、健康体だったエリアナ急速に体力奪われる結果となり、やがて彼女は病に倒れたエリアナ南京陸軍病院搬送された。病名蜂窩織炎で、同年5月3日5月2日または6日説あり)に彼女は生涯終えた大滝愛子は、エリアナ死去知らせ受けた日のことを証言している。当時彼女は、エリアナ不在パヴロワ一家の手伝いをしていた。稽古場着いたところ、ナデジダから1通の電報手渡され読んでくれと依頼受けたという。その内容は「ヒダリガンメンホウカシキエンニテシス(左顔面蜂窩織炎にて死す)」というものであったエリアナ遺骨神戸まで船で送られその後列車東京駅向かった途上大船駅ナタリアナデジダ、さらに門下生数人列車同乗して遺骨出迎え東京駅到着したエリアナ遺骨は、お茶の水ニコライ堂一晩安置された。パヴロワ一家ロシア正教徒であったが、ギリシャ正教ニコライ堂を心の支えとしていたと伝わる。七里ガ浜のバレエスクールにエリアナ帰還果たしたのは、5月12日のことであった大日本舞踊連盟は、エリアナ葬儀6月9日蚕糸会館執り行った続いて6月17日には、軍人会館会場として門下生による追悼舞踊会が開催された。エリアナレパートリー門下生たち踊ったこの舞踊会で、ナデジダ服部智恵子とともに演出担当したナデジダには、エリアナの遺したバレエスクールを引き継ぐ責任生じた。彼女は友人の沢鞠子(沢静子の娘)に「エリアナのようにできるかしら…」と問いかけたという。足の負傷によるハンディキャップ加えて生来病弱でもあり、東京七里ヶ浜でのレッスン掛け持ちは困難であったこういうときに、ナデジダに代わって講師務めたのは当時逗子住んでいた大滝愛子であった大滝14,5歳という年であったが、優秀な踊り手として才能開花させつつあった。大滝は幼いながらナデジダの力となり、常に彼女の支えとなっていた。 時代戦争末期にさしかかりナデジダ門下生たちには苦難時期続いたナデジダ初期門下生1人鈴木久子は「バレエ習っている者は、非国民といわれました」と証言している。レッスンに通うものは小学生主体大人少なく、多い時でも7人から10程度であった1944年11月の末から翌年にかけて、アメリカ軍空襲続いた七里ヶ浜付近に住む学童たちは政府による学童疎開対象になって門下生はさらに減少したこの世相は、ナデジダナタリアにとってロシア革命のときの恐怖思い起こさせずにはいられないものであった

※この「エリアナの死、そして苦難の日々」の解説は、「ナデジダ・パヴロワ (1905年生のバレエダンサー)」の解説の一部です。
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