エリアナの死、そして苦難の日々
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「ナデジダ・パヴロワ (1905年生のバレエダンサー)」の記事における「エリアナの死、そして苦難の日々」の解説
1941年、エリアナは日本陸軍恤兵部の要請によって中支軍慰問に旅立つことになった。出発は3月10日のことで、南京を拠点として兵士たちの前で『瀕死の白鳥』や即興で『海ゆかば』、『さくらさくら』などを披露した。慰問の旅はきつい日程が続いたため、健康体だったエリアナが急速に体力を奪われる結果となり、やがて彼女は病に倒れた。エリアナは南京の陸軍病院に搬送された。病名は蜂窩織炎で、同年5月3日(5月2日または6日説あり)に彼女は生涯を終えた。 大滝愛子は、エリアナ死去の知らせを受けた日のことを証言している。当時彼女は、エリアナ不在のパヴロワ一家の手伝いをしていた。稽古場に着いたところ、ナデジダから1通の電報を手渡され、読んでくれと依頼を受けたという。その内容は「ヒダリガンメンホウカシキエンニテシス(左顔面蜂窩織炎にて死す)」というものであった。 エリアナの遺骨は神戸まで船で送られ、その後列車で東京駅に向かった。途上の大船駅でナタリアとナデジダ、さらに門下生数人が列車に同乗して遺骨を出迎え、東京駅に到着した。エリアナの遺骨は、お茶の水のニコライ堂に一晩安置された。パヴロワ一家はロシア正教徒であったが、ギリシャ正教のニコライ堂を心の支えとしていたと伝わる。七里ガ浜のバレエスクールにエリアナが帰還を果たしたのは、5月12日のことであった。 大日本舞踊連盟は、エリアナの葬儀を6月9日に蚕糸会館で執り行った。続いて6月17日には、軍人会館を会場として門下生による追悼舞踊会が開催された。エリアナのレパートリーを門下生たちが踊ったこの舞踊会で、ナデジダは服部智恵子とともに演出を担当した。 ナデジダには、エリアナの遺したバレエスクールを引き継ぐ責任が生じた。彼女は友人の沢鞠子(沢静子の娘)に「エリアナのようにできるかしら…」と問いかけたという。足の負傷によるハンディキャップに加えて生来病弱でもあり、東京と七里ヶ浜でのレッスン掛け持ちは困難であった。 こういうときに、ナデジダに代わって講師を務めたのは当時逗子に住んでいた大滝愛子であった。大滝は14,5歳という年齢であったが、優秀な踊り手として才能を開花させつつあった。大滝は幼いながらもナデジダの力となり、常に彼女の支えとなっていた。 時代は戦争末期にさしかかり、ナデジダと門下生たちには苦難の時期が続いた。ナデジダの初期の門下生の1人、鈴木伊久子は「バレエを習っている者は、非国民といわれました」と証言している。レッスンに通うものは小学生が主体で大人が少なく、多い時でも7人から10人程度であった。 1944年11月の末から翌年にかけて、アメリカ軍の空襲が続いた。七里ヶ浜付近に住む学童たちは政府による学童疎開の対象になって、門下生はさらに減少した。この世相は、ナデジダとナタリアにとってロシア革命のときの恐怖を思い起こさせずにはいられないものであった。
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