バチカンの囚人とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > バチカンの囚人の意味・解説 

バチカンの囚人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/05 17:41 UTC 版)

ピウス9世 (ローマ教皇)」の記事における「バチカンの囚人」の解説

1858年フランス皇帝ナポレオン3世サルデーニャ王国カヴール同盟しオーストリア軍攻撃オーストリア軍イタリア半島北部から撤退させた。ここにいたってサルデーニャ国王(のち初代イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世教皇領への駐留要求し拒否される軍隊侵入させて制圧した1870年には、フランス軍撤退無防備となったローマ占領した。翌1871年教皇領廃止されローマ正式にイタリア王国首都となると教皇は自らが「バチカンの囚人」(1870年 - 1929年)であると宣言し国王はじめとするイタリア政府関係者破門処しカトリック信者議会選挙投票することを禁じ教令「ノン・エクスペディト」を出したり、王族冠婚葬祭招待無視するなどの対抗処置行いイタリア政府バチカン断交状態に陥ったローマ問題)。

※この「バチカンの囚人」の解説は、「ピウス9世 (ローマ教皇)」の解説の一部です。
「バチカンの囚人」を含む「ピウス9世 (ローマ教皇)」の記事については、「ピウス9世 (ローマ教皇)」の概要を参照ください。


バチカンの囚人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 17:10 UTC 版)

バチカン」の記事における「バチカンの囚人」の解説

詳細は「バチカンの囚人」および「第1バチカン公会議」を参照 1870年普仏戦争勃発によって教皇領守備当たっていたフランス軍撤退すると、イタリア軍残存教皇領もすべて接収しバチカンイタリアとなった。翌1871年には、イタリア政府教皇バチカンおよびラテラノ宮殿領有認めたものの、教皇ピウス9世はこれを拒否し、「バチカンの囚人」(1870年 - 1929年)と称してバチカンに引きこもった。この教皇庁イタリア政府対立ローマ問題呼ばれ以後50年以上にわたって両者間の断絶引き起こした

※この「バチカンの囚人」の解説は、「バチカン」の解説の一部です。
「バチカンの囚人」を含む「バチカン」の記事については、「バチカン」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「バチカンの囚人」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「バチカンの囚人」の関連用語

バチカンの囚人のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



バチカンの囚人のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのピウス9世 (ローマ教皇) (改訂履歴)、バチカン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS