バチカンの囚人
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「ピウス9世 (ローマ教皇)」の記事における「バチカンの囚人」の解説
1858年、フランス皇帝ナポレオン3世はサルデーニャ王国のカヴールと同盟し、オーストリア軍を攻撃、オーストリア軍をイタリア半島北部から撤退させた。ここにいたってサルデーニャ国王(のち初代イタリア国王)ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は教皇領への駐留を要求し、拒否されると軍隊を侵入させて制圧した。1870年には、フランス軍の撤退で無防備となったローマを占領した。翌1871年、教皇領が廃止され、ローマが正式にイタリア王国の首都となると、教皇は自らが「バチカンの囚人」(1870年 - 1929年)であると宣言し、国王をはじめとするイタリア政府関係者を破門に処し、カトリック信者が議会の選挙に投票することを禁じる教令「ノン・エクスペディト」を出したり、王族の冠婚葬祭の招待を無視するなどの対抗処置を行い、イタリア政府とバチカンは断交状態に陥った(ローマ問題)。
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バチカンの囚人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 17:10 UTC 版)
詳細は「バチカンの囚人」および「第1バチカン公会議」を参照 1870年に普仏戦争の勃発によって教皇領の守備に当たっていたフランス軍が撤退すると、イタリア軍が残存教皇領もすべて接収し、バチカンはイタリア領となった。翌1871年には、イタリア政府は教皇にバチカンおよびラテラノ宮殿の領有を認めたものの、教皇ピウス9世はこれを拒否し、「バチカンの囚人」(1870年 - 1929年)と称してバチカンに引きこもった。この教皇庁とイタリア政府の対立はローマ問題と呼ばれ、以後50年以上にわたって両者間の断絶を引き起こした。
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