バチカンの役割
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「カトリック聖職者のウスタシャへの関与」の記事における「バチカンの役割」の解説
歴史家マイケル・フェイヤー(Michael Phayer)によると、「ステピナツとバチカンがウスタシャの暴力が殺人へと化した事を知らなかったと信じる事は不可能だ」としている。コーンウェルは「バチカンが残虐行為について知っていた事、パヴェリッチが調停する為の優秀な職員を使い損ねた事、そして北欧で計画されていた最終的解決に対してバチカンの代表団が共謀していたので」、カトリック聖職者の関与が重要だと考えている。 教皇ピウス12世は長期に渡ってクロアチア人のナショナリズムを支持していた。ニコラ・タヴェリッチ(Nikola Tavelić)を聖人にする為に、そして幅広く「ウスタシャの歴史認識を立証する」為に、彼は1939年11月にローマにクロアチア人の巡礼団を招き入れた。ステピナツ大司教との会談で、ピウス12世は、正教徒のセルビア人は本当のキリスト教徒ではないというニュアンスを含んだ、クロアチア人は「キリスト教の前哨地だ」という教皇レオ10世の言葉を反復した。ピウス12世はステピナツに予言した: "より良い将来の希望はあなた方に微笑んでいる。その将来は教会と国家との関係があなた方の国で調和の取れた行動が両者の優位性へと統制されるであろう。" 国務次官モンティーニ(後の教皇パウロ6世))が「クロアチアとポーランドに関する日々の事柄に責任を有していた」。彼は毎日ピウス12世に報告し、1941年にはウスタシャの残虐行為について聴いていた。1942年3月に、モンティーニはバチカンに来ていたクロアチアの代表団に「これらの残虐行為が発生した可能性はあり得るのか」と尋ねた。するとクロアチア側はそういった告発は「かなり曲げられている」と見ていると答え、一度はそれらを「嘘とプロパガンダ」だと呼んだ。モンティーニの同僚ドメニコ・タルディーニ(Domenico Tardini)はウスタシャの代表団に「クロアチアは若い国だ。[...]若者はその年齢の所為で屡々間違えがちだ。従ってクロアチアが間違えた事も驚くには値しない」という理由で、バチカンがウスタシャ体制を免罪する方針であると伝えた。 ステピナツは1942年4月にローマに呼び付けられて、彼はそこにパヴェリッチの数々の悪行が詳しく掲載された9頁の書類を持参した。この書類にはパヴェリッチ本人が知らされていないか認めていない残虐行為について「異常」と書かれてあったが、ADSS(Actes et documents du Saint Siège relatifs à la Seconde Guerre Mondiale)からは削除されている。しかしながら、1942年までにバチカンは「教皇による非難が不安定なクロアチア国家に出されるという結果を危険に晒すよりはステピナツにファシストを制御させる方を好んだ」。 後に枢機卿団の団長となるウジェーヌ・ティサラン(Eugène Tisserant)によると、「我々はこれらの残虐行為に関与した全ての聖職者のリストを持っている。そして我々は彼らが付けた染みを綺麗にする為に然るべき時に彼らを処罰するだろう」と述べた。ピウス12世はクロアチアのカトリック聖職者がウスタシャ体制に関与していた事を詳しく知らされていたが、クロアチアの教会が分裂し、将来のクロアチア国家の形成を浸食する事を恐れて、体制を非難する事や「虐殺に関わった」聖職者に対して行動を起こす事さえしないと決定した。 フェイヤーはバチカンのポーランドでの虐殺に関する「限定的で大雑把」な知識と、「虐殺に関与していた間に教皇大使とクロアチア教会の最高指導者ステピナツ大司教の双方が教皇庁(ローマ教皇庁)と継続的に接していたというクロアチアの場合」とを比較する。国務長官マリョーネが教皇大使マルコーネに「もし猊下が相応しい場合を見付ける事が出来るならば、公式見解を示したと解釈されない様に、そしてクロアチアの領土でのユダヤ人に対する関心の節度が保たれる様に慎重な方法を採るべきです。猊下は地方の文民政権に協力している[...]という印象を常に持ち続けるべきです」と言った。フェイヤーは、バチカンが「虐殺の不道徳性について公的にファシストに挑戦するのではなく、ウスタシャ政府に外交圧力を掛ける方を好んだ」としている。 しかしながら、ロナルド・J・ライチラク教授によると、「1941年から1944年までバチカンはスロバキアからのユダヤ人追放に関して四つの公式の手紙と無数の口頭による弁明と不服申し立てを出した」という。ライチラクは1943年4月7日にピウス12世本人が出した手紙を引用する: "聖座(教皇庁)は常にスロバキア政府が、また、スロバキア国民独自の人々の感情を解釈する事、カトリック教徒がユダヤ人種に属している人々の強制的な排除が殆ど完全に決して続行されはしないという安定した望みを抱きました。従って、聖座が共和国の領域からそのような自然の継続的な移動について知って、激しい痛みを感じています。スロバキア政府がスロバキアのユダヤ人の居住者の完全な除去を続行するという意図に関して様々な報告を受けた今、この痛みは更に悪化しています。そして、スロバキア政府は女性と子供たちさえ労りません。これらの人々が特定の人種に属している理由の為だけに単にこれらの処置、人間の基本的人権を踏みにじる行動を非難しないならば、聖座は聖なる支配に失敗するでしょう。" ライチラクは同様に述べる: "翌日、聖座から追放に直面していたユダヤ系住民を支持せよという内容のメッセージがブルガリアにいるバチカンの代表団を指導する送られた。その後間もなく、イスラエルの為のユダヤ・エージェンシー(Jewish Agency for Israel)の総長がアンジェロ・ロンカリ(後の教皇ヨハネ23世))と面会し、「スロバキアにいるイスラエル民族の味方となって行動して下さり、幸せな結果を聖座に感謝する」と述べた。ライチラクは付け加える。「1942年10月に、バチカンからザグレブにいる代表団に「クロアチアに暮らしていたユダヤ人に対する追放という痛々しい状況」についてのメッセージが送られ、政府に「それらの恵まれない人々により慈悲深い扱い」を嘆願させるように聖職者達に指導した」。国務長官のメモ書きが1943年1月までにバチカンの嘆願が「クロアチアのユダヤ人」の宙ぶらりん状態の解消に成功した事を反映しているが、ドイツは「ユダヤ人に対してより強い態度」の為に圧力を適用していた。1943年3月6日に送られたもう一つの教皇庁からザグレブにいた代表団への指示は、ユダヤ人の味方になって仕事をするようにとの内容だった。
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