バチカンの"ラットライン"
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 10:17 UTC 版)
「カトリック聖職者のウスタシャへの関与」の記事における「バチカンの"ラットライン"」の解説
詳細は「ラットライン (第二次世界大戦)」および「w:Ratlines (World War II)」を参照 フェイヤーによると、「戦争が終わった頃に、シャリッチ司教といった聖職者の支持者を含めてウスタシャ運動の指導者達が、虐殺されたユダヤ人やセルビア人から奪い取った金塊を持って国内からローマに逃亡した」という。 ピウス12世は第二次世界大戦後にアンテ・パヴェリッチを擁護し、「ローマにあるバチカンの財産」で逃亡生活を支え、南米への渡航を助けた。パヴェリッチとピウス12世はバルカン半島にあるカトリック国家の目標を共有し、ティトー支配下の共産主義国家に対抗する事で意思が統一された。ピウス12世は同様に、パヴェリッチやその他の戦争犯罪人がユーゴスラビアでは公平な裁判を受けられないと信じていた。1946年にローマに到着した後、パヴェリッチはラットライン(Ratlines (World War II))を使って他のウスタシャのメンバーと共に1948年にアルゼンチンに到着した。ロシア、ユーゴスラビア、イタリア、そしてアメリカのスパイやエージェント全員がパヴェリッチをローマで拘束しようとしたが、バチカンは全ての協力を拒否し、力強く治外法権の立場を守った。パヴェリッチは身柄を捕らえられず彼の犯罪に関して裁判にも掛けられなかった。 フェイヤーによると、「パヴェリッチを匿うバチカンの動機はティトーが教会をどう扱うのかに対する不安によって一本調子に大きくなった」という。 多数のクロアチア難民や戦争犯罪人がローマの聖ヒエロニムス・教皇庁クロアチア大学(Pontifical Croatian College of St. Jerome)に収容された。情報機関の報告はパヴェリッチ本人の居場所についても言及していた。防諜軍団 (アメリカ陸軍)(Counterintelligence Corps (United States Army))のエージェント、ウィリアム・ゴーウェン(バチカン駐在の外交官フランクリン・ゴーウェンの息子)がパヴェリッチ発見の任務を背負った一人だった。防諜軍団がバチカンとアメリカとの関係がパヴェリッチの居場所を明らかにすると望んだとしても、結局のところ事態は後退し、バチカンはアメリカに撤退させる事を了承させた。1947年の春までに、バチカンは米英両国にウスタシャの戦争犯罪人をユーゴスラビアに引き渡さない様にと激しい圧力を掛けていた。 特殊エージェントのゴーウェンは1947年に、パヴェリッチが共産主義と同様に正教会にも反対していたという記録の為に、「彼はバチカンで相当高いレベルの人物と接触しており、彼の現在の立場はバチカンに対し妥協的になっている事、如何なる対象の引き渡しもローマ・カトリック教会にしてみれば驚くべき一撃になっただろう」と警告した。教会が恐れていた困惑はパヴェリッチによるバチカンの「ラットライン」の使用ではなく(パヴェリッチはこの時点では帰国する希望を抱いていて、ラットラインを使おうとはしなかった)、バチカンが信じていた事実がパヴェリッチの最終的な裁判で明らかになる事であった。
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