ローマ問題とは? わかりやすく解説

ローマ問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/31 01:17 UTC 版)

ローマ問題(ローマもんだい、:Questione romana, :Roman Question)は、1861年から1929年にかけてのイタリア王国ローマ教皇庁の間におきた政治的な問題。

概要

ローマ共和国 (19世紀)

1849年7月3日ジュゼッペ・ガリバルディのローマ防衛軍は、ローマ大学の戦いイタリア語版においてジャニコロ丘ルイ・ナポレオンのフランス軍に降伏し、ローマ共和国は短命に終わった。

第1回イタリア国民議会

1861年2月18日、第1回イタリア国民議会サルデーニャ王国の王都トリノで開催された。3月17日に議会はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のイタリア国王即位を承認した。3月27日に王国の首都は投票によりローマローマ教皇領)とされた。

1861年、イタリア王国ローマ教皇ピウス9世に対して以下の3条を求めた。

アスプロモンテの戦い

1862年8月14日、教皇領がイタリアから独立していることをフランスに保証されていることに不満を持つジュゼッペ・ガリバルディによるアスプロモンテの戦いが起こったが、イタリア政府のウルバーノ・ラッタッツィイタリア語版英語版首相はこの行動を認めず、イタリア政府軍に鎮圧された。

「9月会議」

1864年9月、9月会議

第1バチカン公会議

1869年12月8日から1870年10月20日まで第1バチカン公会議が開催されたが、1870年10月に普仏戦争が勃発し、会議は無期延期となった。

ローマ占領

1870年に起こった普仏戦争によりローマ教皇領752年 - 1870年)を守護していたフランス軍が撤退すると、イタリア王国ジョヴァンニ・ランツァイタリア語版英語版首相は教皇領を占領し(ローマ占領イタリア語版英語版)、翌年ローマへ遷都した。同年5月13日イタリア王国教皇保障法イタリア語版を制定してその地位を保障しようとした。

しかし教皇庁は、カトリック教会が特定の政治権力の影響を受けないことを理由にこれを拒絶。ピウス9世はイタリア政府に関わる者すべてを破門するという強硬な処置をとった。 教皇側が拒否、国政への不参加を呼びかけるなど、イタリア王国とローマ教皇の対立構図が形成された。これによりイタリア王国と教皇庁の関係は断絶し、教皇は自らを「バチカンの囚人」(1870年 - 1929年)と称した。

影響

ローマ進軍

ラテラノ条約

イタリア王国とローマ教皇庁との関係改善は、1929年のラテラノ条約締結とバチカン市国独立を待たねばならなかった。

第2バチカン公会議

1962年、90年ぶりに無期延期されていた会議が、第2バチカン公会議として再開された。

関連項目


ローマ問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 08:22 UTC 版)

ジュゼッペ・ガリバルディ」の記事における「ローマ問題」の解説

詳細は「ローマ問題」を参照 このようなガリバルディ革命事業は、決し満足のいくものではなかった。“アルプス山脈からアドリア海までの完全な自由”という彼のモットーから見れば、まだローマヴェネツィアが未回収であったマッツィーニとて新たな支配的な政府に不満であったから、新共和国対す揺さぶり続けたガリバルディも王の怠惰に不満があり、冷遇苛立ってもいた。彼が教皇領奪回意図したのはこのときである。 教皇領奪回世界中カトリック教徒から不審の目で見られており、ナポレオン3世フランス軍ローマ駐留させることによって、教皇領イタリアから独立保証していた。1862年6月ガリバルディジェノヴァ出航し教皇領奪回のための義勇兵求めてパッラヴィチーノ(イタリア語版フランス語版)が県知事務めパレルモ上陸した熱狂的にイタリアの完全統一を望む者たちはすぐに彼の義勇軍加わりイタリア本土に向かうべくメッシーナへと向かった到着したときには彼は2000の兵を率いていたが、駐留軍は王の指示忠実に守って彼らの通過禁止した。そのため彼らは南に転進しカターニアから出航したガリバルディはここで「勝者としてローマ入城するか、あるいはその壁の前に倒れるかのどちらかだ」と宣言したという。 8月14日にはメーリトに上陸し一時カラブリア山々占領したアスプロモンテの戦い)。イタリア政府のウルバーノ・ラッタッツィ(イタリア語版英語版首相は、この行動支援することはもとより承認さえもしなかった。チャルディーニ(イタリア語版英語版将軍義勇軍対し、パッラヴィチーニ(イタリア語版フランス語版大佐師団派遣し両軍8月28日対峙した。王国軍1人発砲し立て続け一斉射撃義勇軍襲ったガリバルディ義勇兵たちに反撃禁止したことから戦闘はすぐに終結し負傷したガリバルディを含む多く義勇兵捕虜となった政府汽船連行されガリバルディは、名誉ある囚人として収監され、退屈と傷を治すための手術を強要された。彼の軍事行動失敗終わった。しかし彼の人気は衰えことはなかった。傷が治り健康が回復すると、カプレーラ島帰ることも許された。

※この「ローマ問題」の解説は、「ジュゼッペ・ガリバルディ」の解説の一部です。
「ローマ問題」を含む「ジュゼッペ・ガリバルディ」の記事については、「ジュゼッペ・ガリバルディ」の概要を参照ください。

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