ローマ占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 08:39 UTC 版)
「第1バチカン公会議」および「普仏戦争」も参照 教皇領の大部分をイタリア王国に奪われ、さらにはローマまで脅かされていた教皇ピウス9世は1864年に『誤謬表』を公布して自然主義、合理主義、宗教的寛容主義、社会主義、共産主義そして近代的自由主義といった近代思想・文化を誤りであるとして批判し、近代社会との対決姿勢を示している。 一方、民主派の動向は未だ共和主義を唱えるマッツィーニが1862年に「神聖方陣」(Falange sàcra)を結成するが、既に彼の影響力は低下しており、勢力を伸ばすことができずにいた。活動の場を国際社会に求め、「国際労働者協会」(第一インターナショナル)に参加し、1866年には「共和同盟」(Alleanza repubblicana)を結成するも、労働運動の潮流はカール・マルクスやミハイル・バクーニンの階級闘争が主流となっており、マッツィーニの階級調和を求める友愛組合的運動は時代に取り残されていた。 この頃、ガリバルディの反教皇主義は過激さを増しており、議会選挙演説で教皇を「強奪者」、教皇庁を「毒ヘビの巣」と罵り、ジュネーブで開催された国際和平会議でも極端な反カトリックの言辞を繰り返し、激しい反発を受けるほどだった。ガリバルディによるローマ攻撃が差し迫るとナポレオン3世はイタリア政府に圧力をかけるが、イタリア政府は曖昧な態度をとり、ガリバルディを完全に抑えようとはしなかった。 1867年10月にガリバルディは7,000人の義勇兵を率いてローマを占領するための2度目の軍事的冒険を敢行した。だが、ローマ市内から蜂起を起こす工作は不発に終わり、貧弱な装備の彼の軍隊は、再派遣されたフランス軍部隊が加わって増強された教皇軍により、メンターナの戦い(英語版)で撃破されてしまう。その後、フランス軍はローマに駐留し続けた。 1869年、教皇ピウス9世は300年ぶりとなる第1バチカン公会議を召集した。公会議では教皇首位説、教皇不可謬説が宣言され、改めて近代思想・文化を誤謬として排斥する姿勢を示したが、普仏戦争の勃発により中断を余儀なくされる。 1870年7月の普仏戦争開戦に際してナポレオン3世は8月にローマ駐留部隊を呼び戻し、教皇国家の防備は弱体化した。だが、イタリア政府はセダンの戦いで第二帝政が崩壊するまで、行動を差し控えた。ナポレオン3世の敗北が明白になると、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はグスタボ・ポンツァ・ディ・サン・マルティーノ(英語版)伯爵を教皇ピウス9世の元に派遣し、教皇を保護する名目でイタリア軍をローマに入れると云う形式で教皇の体面を保たせる提案をした手紙を手渡した。だが、教皇ピウス9世はこの提案を拒絶する。 (1870年9月10日の)教皇とサン・マルティーノとの会見は友好的なものではなかった。… 教皇はテーブルの上に国王からの手紙を投げ出し、「素晴らしい忠誠だ!貴様らは毒蛇の集まりだ、白々しい偽善者どもだ、そして信仰心に欠けている」と非難した。教皇はおそらく国王からのその他の手紙のこともほのめかしていた。暫しの沈黙の後、教皇は叫んだ。「私は預言者ではなく、預言者の子でもない、だが、あえて言おう、貴様らがローマに入ることは断じてない」。サン・マルティーノは非常に悔しがり、次の日に出立した。 — Raffaele De Cesare、The Last Days of Papal Rome 9月11日にラファエル・カドルナ(英語版)将軍率いるイタリア軍が教皇国家との境界を越え、教皇との交渉が成立して平和的な入城が出来ることを望んで、ローマへ向かってゆっくりと進軍した。9月19日にイタリア軍はアウレリアヌス城壁の前に到着し、ローマを包囲下に置いた。教皇ピウス9世は敗北は避けえないと理解してはいたが、それでもなお教皇庁は無法な暴力に屈したと世界に示すために、彼の兵士たちに象徴的な抵抗を行うよう命じた。 9月20日、3時間の砲撃の後、ベルサリエリ(狙撃兵部隊)がピア門を突破して市内に入り、ピア通りを進軍した。この戦いでイタリア軍将校4人と兵士49人、教皇軍兵士19人が戦死した。 10月2日、ローマとラティウムでイタリア王国への合併の賛否を問う住民投票が行われた。住民投票の結果を受け、10月9日に併合が実施された。1871年7月1日、フィレンツェからローマへの遷都が行われた。
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