ローマ奪回
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:43 UTC 版)
「ルキウス・コルネリウス・スッラ」の記事における「ローマ奪回」の解説
スッラは戦後処理が一段落つくと再度のローマ占領へ向けて動き出した。キンナはスッラに向け冬期アドリア海渡航を命じた兵士の反乱によって紀元前84年に死亡していた。紀元前83年にスッラ軍はイタリアに侵入、パピリウス・カルボ、マリウスの子小マリウスがこれを迎え撃ったが、グナエウス・ポンペイウスやマルクス・リキニウス・クラッスス、ルキウス・セルギウス・カティリナ、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスらがスッラに合流してこれを破り、翌紀元前82年に再びローマに入ったスッラはマリウス派への報復として2度目の粛清を行い、膨大な数の元老院議員や騎士を処刑した。クィントゥス・セルトリウスもプロスクリプティオに載せているが、ポンペイウスに対しては、独裁官となってからも敬意を表している。両者の争いは短期間に3度もの首都占領と粛清を引き起こし、ローマの多くの人材が失われる激しい内戦となった。
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