ローマ大学時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 00:22 UTC 版)
「エンリコ・フェルミ」の記事における「ローマ大学時代」の解説
1926年、物理学者のオルソ・コルビーノがローマ・ラ・サピエンツァ大学に理論物理学の教授職を新設し、フェルミは20代半ばにして同大学の理論物理学教授に就任した。フェルミはここで親友のラゼッティとともに研究チームを作り、まず生徒としてエドアルド・アマルディ(en:Edoardo Amaldi)とエミリオ・セグレがやってきた。さらにその後、オスカー・ディアゴスティーノ(Oscar D'Agostino)、エットーレ・マヨラナ、ブルーノ・ポンテコルヴォらが研究チームに加わり、このラガッツィ・ディ・ヴィア・パニスペルナ(パニスペルナ通りの少年達)と呼ばれる若いチームは世界でも第一級の研究チームとなっていった。また、1928年にはラウラ・カポーネと結婚している。ここで、フェルミはニュートリノの存在を導入したベータ崩壊の理論(フェルミのベータ崩壊の理論)を完成させた。また、自然に存在する元素に中性子を照射することによって、40種類以上の人工放射性同位元素を生成した。さらに、熱中性子を発見し、その性質を明らかにした。これらの成果によって、1938年にノーベル物理学賞を受賞した。しかしこのころイタリアはベニート・ムッソリーニのファシスト政権下にあり、妻のラウラ・カポーネがユダヤ人であったため、ユダヤ人排撃の動きが強まる中、フェルミはアメリカの大学からの招聘依頼を獲得し、国外移住を決意する。そしてノーベル賞授賞式出席の為イタリアを出国し、ストックホルムで賞を受け取ったのち、そのままアメリカに移住した。
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