ファージの研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 14:21 UTC 版)
「サルバドール・エドワード・ルリア」の記事における「ファージの研究」の解説
1940年9月12日にニューヨークに到着すると、ルリアもすぐにファーストネームとミドルネームを改名した。ルリアのローマ大学時代からの知人であったエンリコ・フェルミの助けもあって、ルリアもロックフェラー財団のフェローとしてコロンビア大学で研究を続けることができた。ルリアはすぐにデルブリュックとハーシーに会い、彼らは共同してコールド・スプリング・ハーバー研究所やデルブリュックの研究室があるヴァンダービルト大学で実験を行った。 ルリアとデルブリュックが1943年に行った、有名なルリア-デルブリュックの実験は、細菌の遺伝もジャン=バティスト・ラマルクではなくチャールズ・ダーウィンの説に基づくことを示し、突然変異を起こした細菌はウイルスが存在しなくてもウイルス耐性を持ちうることを示した。細菌にも自然選択説が作用するという考えは、例えば細菌の抗生物質耐性も説明しうる、深い結論だった。 1943年から50年にかけて、ルリアはインディアナ大学で働いた。ルリアの研究室の第一期生には、DNAの構造を解明したジェームズ・ワトソンがいる。ルリアは1947年にアメリカに帰化した。 1950年、ルリアはイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校に移った。ここで大腸菌の培地がどのようにファージの増殖を防いでいるかを観察している際、ルリアもある種の細菌がDNAを特定の配列で切断する酵素を造っていることを発見した。これらの酵素は制限酵素として知られるようになり、分子生物学には欠かせないツールとなっている。
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