ローマ大使館時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/21 13:39 UTC 版)
「ジョン・マイケル・ライト」の記事における「ローマ大使館時代」の解説
1685年に自身がカトリック教徒であることを公言していたジェームズ2世がイングランド王に即位し、ライトはイングランドに戻って王室の仕事を請けることが可能となった。しかしながらジェームズ2世はライトに芸術家ではなく、外交官の世話役という「労多くして益の少ない」仕事を与えた。ライトはチャールズ2世の愛妾だったバーバラ・ヴィリアーズの夫君で初代カースルメイン伯爵ロジャー・パーマー (en:Roger Palmer, 1st Earl of Castlemaine) の世話役に任命された。ライトが持つローマ滞在経験による知識とイタリア語学力も関係したのか、1686年にパーマーはローマ教皇インノケンティウス11世への大使に選ばれ、ローマへと派遣されている。イングランドのローマへの大使派遣は、当時のヨーロッパで喫緊の問題だったローマ・カトリックとプロテスタントとの宗教対立において、イングランドがローマ・カトリック側の立場であることを表す示威行動でもあった。外交官としてのライトの役目は1687年1月の教皇との謁見に向けて、指南役、衣装、装飾などを遺漏なく整えられるよう監視することだった。ほかにもドリア・パンフィリ宮殿で1,000人の招待客を集めて催された大規模な晩餐会の指揮をとり、さらに自ら砂糖菓子でできた彫刻とジェームズ2世の大きな公式肖像画とを手がけてこの晩餐会を成功させている。ライトはローマ滞在中にイタリア駐在大使のイタリア語解説書を刊行してモデナ公妃ラウラ・マルティノッツィに献じており、ローマを離れる1687年10月にはこの解説書の英語版を書き上げてモデナ公妃の娘のジェームズ2世妃メアリー・オブ・モデナに献じている。
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