ローマ滞在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 07:00 UTC 版)
「ミシェル=フランソワ・ダンドレ=バルドン」の記事における「ローマ滞在」の解説
彼はローマのフランス・アカデミーに席を占めるためにコンクールに応募した。1724年の回では成功を収めることはなかった。だがその翌年、1725年にはルイ・ミシェル・ヴァン・ローに次ぐ第2位を得て賞を獲得した。 アントン公ルイ・アントワーヌ・ド・パルデラン・ド・ゴンドランの介入により、ローマのフランス・アカデミーに派遣された。その条件として、両親が旅行費を世話することが要求された 。 1726年6月26日、ローマのアカデミー・ド・フランス院長ニコラス・ヴルーゲルは、ダンドレ=バルドンを受入れた。この画家は「公金横領者を告訴するアウグストゥス」を主題とする作品を描いた。同じキャンバスの両面に描かれたこの作品は、エクス=アン=プロヴァンスに送られ、画家の帰還のかなり前に、会計裁判所の監査室の部屋で表裏両面が見えるように掛けられた 。 1731年の初めに、ダンドレ=バルドンはフランスに戻るためにローマを去らなければならず、ヴェネツィアにさらに6ヶ月滞在した。
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