ローマ王ルドルフ1世への臣従
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/16 08:33 UTC 版)
「ヘンリク4世」の記事における「ローマ王ルドルフ1世への臣従」の解説
ヘンリク4世はオタカル2世にマルヒフェルトの戦いに際してボヘミア軍への補給活動を行うよう命じられており、この戦いに参加しなかった。しかし、この戦いでのオタカル2世の戦死は、ヴロツワフ公国にとって庇護者を失うことを意味し、公国に衝撃をあたえた。オタカル2世の死を知ると、ヘンリク4世はプラハに赴いて、親族でもあるオタカル2世の息子ヴァーツラフ2世の後見人になろうとした(ヘンリク4世の父方の祖母アンナはオタカル2世の伯母であり、ヘンリク4世とヴァーツラフ2世は又従兄弟同士)。しかし、ローマ王ルドルフ1世がブランデンブルク辺境伯オットー5世を摂政に指名したため、ヘンリク4世の試みは失敗した。代わりに、ルドルフ1世はヘンリク4世にグラーツ郡を封土として与えた。 オタカル2世の死後、ヘンリク4世はルドルフ1世と和解し、1280年にはウィーンに赴いて外交交渉を行い、ポーランド王冠を獲得しようとした。一部の歴史家は、ヘンリク4世がルドルフ1世に臣従の礼を取るさい、機会をとらえて自分にポーランド王となる資格があることに触れたと信じている。また当時ヘンリク4世はオポーレ公ヴワディスワフと同盟していた。ヴワディスワフはヘンリク4世に娘のコンスタンツィアを嫁がせており、彼は娘をポーランド王妃にして、その父親として権力を握る目論見から、婿となったヘンリク4世の王位獲得のための運動への支援を約束したと考えられる。
※この「ローマ王ルドルフ1世への臣従」の解説は、「ヘンリク4世」の解説の一部です。
「ローマ王ルドルフ1世への臣従」を含む「ヘンリク4世」の記事については、「ヘンリク4世」の概要を参照ください。
- ローマ王ルドルフ1世への臣従のページへのリンク