オポーレ公国
オポーレ公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/16 22:54 UTC 版)
「ミェシュコ1世プロントノギ」の記事における「オポーレ公」の解説
1201年3月22日、ミェシュコ1世の甥であるヤロスワフが死んだ。オポーレ公国はその父親であるボレスワフ1世の領地に戻り、ボレスワフ1世は一時的に勢力を回復したが、9ヶ月後の1201年12月7日(8日とも)に世を去り、唯一生き残った末子ヘンリク1世(髭公)がその全領土を相続した。これを受けてミェシュコ1世はオポーレの獲得を決意し、1202年の年頭に奇襲をかけることにした。ミェシュコ1世はオポーレを入手し、これを自分の領土に組み入れた。この勝利に飽き足らないミェシュコ1世は更なる領土獲得を狙ったが、ヘンリク1世を熱心に支持していた教会勢力がこれに反対した。グニェズノ大司教ヘンリク・キェトリチュとヴロツワフ司教ツィプリアンの調停によってヘンリク1世の領土は守られたが、代償としてヘンリク1世は教会に対して年100本の銀を納めなければならなくなった。
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