オポーレ公国
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- オポーレ公国
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Księstwo opolskie(pl)
Opolské knížectví(cs)
Herzogtum Oppeln(de) -
← 1172年 - 1202年
1281年 - 1532年→
(国旗) (国章) -
シロンスク公国の分裂の始まり(1172年 - 1177年)、ボレスワフ1世長身公のヴロツワフ公国(オレンジ色)、その弟ミェシュコ1世跛足公のラチブシュ公国(黄色)、ボレスワフの長男ヤロスワフのオポーレ公国(緑色) -
首都 オポーレ - 公
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1177年 - 1195年 ボレスワフ1世ヴィソキ 1497年 - 1532年 ヤン2世 - 変遷
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シロンスク公国から分離し成立 1172年 ラチブシュ公国と統合 1202年 ラチブシュ公国から分離 1281年 ボヘミア王冠領の封土となる 1327年 ラチブシュ公国と統合 1521年 ボヘミアに併合 1532年 プロイセン王国に併合 1742年
オポーレ公国またはオペルン公国(ポーランド語:Księstwo opolskie;チェコ語:Opolské knížectví;ドイツ語:Herzogtum Oppeln)は、シロンスク公国群に属する公国の一つ、首都はオポーレ。
歴史
公国は1172年、ボレスワフ1世の長男ヤロスワフの領国として分離独立した。ヤロスワフの死後、1201年から1202年までの短い間はヴロツワフ公国に併合されていたが、1202年にヤロスワフの叔父ミェシュコ1世が自分の領するラチブシュ公国へと取り込み、オポーレ=ラチブシュ公国を形成した。1290年、オポーレ=ラチブシュがヴワディスワフ・オポルスキの4人の息子達の間で分割相続されると、ラチブシュ公国から分離した単独のオポーレ公国が成立したが、この2国の領土の一部からチェシン公国、ビトム公国が新たに分立した。
1327年、公国はボヘミア王冠領の封土(レーエン)となった。公国はこの後、繰り返し起きる領土的変化によって不安定な状態が続き、15世紀半ばに至るまで徐々にその版図は縮小していった。しかし15世紀後半には再び拡張を始め、1511年にはオポーレ=ラチブシュ公国が再形成されることになった。1532年、ピャスト家最後の統治者ヤン2世が死ぬと、公国は完全にボヘミアの主権下に入った。オポーレ=ラチブシュ公国の支配者はホーエンツォレルン家、ハプスブルク家、ヴァザ家など目まぐるしく変わっていった。オポーレ=ラチブシュ公国は1742年、最終的にプロイセン王国によって併合され、消滅した。
オポーレ公
- 1177年-1195年 ボレスワフ1世ヴィソキ
- 1195年-1201年 ヤロスワフ
- 1201年-1202年 ヘンリク1世
- 1202年-1211年 ミェシュコ1世プロントノギ
- 1211年-1230年 カジミェシュ1世
- 1230年-1246年 ミェシュコ2世
- 1246年-1281年 ヴワディスワフ・オポルスキ
- 1281年-1313年 ボルコ1世
- 1313年-1316年 ボレスワフ・ピェルヴォロドヌィ、ボルコ2世およびアルベルトによる共同統治
- 1316年-1356年 ボルコ2世
- 1356年-1367年 ヴワディスワフ・オポルチク、ボルコ2世による共同統治
- 1367年-1401年 ヴワディスワフ・オポルチク
- 1401年-1437年 ボルコ4世
- 1437年-1439年 ミコワイ1世、ヤン1世による共同統治
- 1439年-1476年 ミコワイ1世
- 1476年-1497年 ヤン2世、ミコワイ2世による共同統治
- 1497年-1532年 ヤン2世
- 1532年-1543年 ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルク
- 1543年-1549年 ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルク・フリードリヒ
- 1549年-1551年 ボヘミア王フェルディナント1世
- 1551年-1556年 イザベラ・ヤギェロンカ、サポヤイ・ヤーノシュ・ジグモンドによる共同統治
- 1556年-1558年 ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルク・フリードリヒ
1558年よりハプスブルク家がボヘミア王として領有し、一時的に他家門の出身者が公として統治
- 1597年-1598年 バートリ・ジグモンド
- 1622年-1625年 ベトレン・ガーボル
- 1645年-1648年 ポーランド王ヴワディスワフ4世
- 1648年-1655年 カロル・フェルディナント・ヴァザ
- 1655年-1666年 ポーランド王ヤン2世カジミェシュ
- 1666年-1742年 ハプスブルク家がボヘミア王として領有
オポーレ公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/16 22:54 UTC 版)
「ミェシュコ1世プロントノギ」の記事における「オポーレ公」の解説
1201年3月22日、ミェシュコ1世の甥であるヤロスワフが死んだ。オポーレ公国はその父親であるボレスワフ1世の領地に戻り、ボレスワフ1世は一時的に勢力を回復したが、9ヶ月後の1201年12月7日(8日とも)に世を去り、唯一生き残った末子ヘンリク1世(髭公)がその全領土を相続した。これを受けてミェシュコ1世はオポーレの獲得を決意し、1202年の年頭に奇襲をかけることにした。ミェシュコ1世はオポーレを入手し、これを自分の領土に組み入れた。この勝利に飽き足らないミェシュコ1世は更なる領土獲得を狙ったが、ヘンリク1世を熱心に支持していた教会勢力がこれに反対した。グニェズノ大司教ヘンリク・キェトリチュとヴロツワフ司教ツィプリアンの調停によってヘンリク1世の領土は守られたが、代償としてヘンリク1世は教会に対して年100本の銀を納めなければならなくなった。
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