12世紀から16世紀
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「チェンストホヴァ」の記事における「12世紀から16世紀」の解説
チェンストホヴァの村ができたのは11世紀である。最初に村として歴史的な文書に記されたのは1220年からである。1382年、聖パウルス派のヤスナ・グラ修道院がオポーレ公ヴワディスワフによって建てられた。2年後、修道院は有名なイコン、『ヤスナ・グラの聖母』を受け取った。この絵はその後の年月で巡礼の中心となり、近隣の町の成長に貢献した。1377年より前にチェンストホヴァは特権を持つ町となり、のちに1502年にマクデブルク法に変わった。
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12世紀から16世紀
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院長シュジェールはサン=ドニ住民を農奴から解放し、修道院の拡張と再建を行った。1277年、大聖堂でルイ9世(聖王)の埋葬が行われた。 1377年、神聖ローマ皇帝カール4世がサン=ドニを訪れた。 シャルル5世は、1380年に死んだベルトラン・デュ・ゲクランを大聖堂に埋葬した。ゲクランの葬送時に大聖堂初めての追悼演説が行われている。シャルル6世はたびたびサン=ドニを訪れ、アンジュー公ルイ2世の子ルイとシャルルを騎士の列に加えた。 手をかけて防衛がなされていたサン=ドニは、アルマニャック派とブルゴーニュ派の内戦(fr)時に両派が奪取を繰り返す地となった。 1435年にサン=ドニを占領したイングランド軍は、大聖堂の金銀や聖器を持ち去った。 ユグノー戦争中の1567年11月10日、サン=ドニの戦いで、カトリック同盟軍とユグノー同盟軍が衝突した。ユグノー同盟軍は破れ(それでも彼らは大聖堂の宝物を奪い、墓をあばいた)、アンヌ・ド・モンモランシーが戦死した。 サン=ドニはリーグ戦争でも被害を受けた。1590年7月、アンリ4世に降伏し、1593年に彼は大聖堂内において新教を棄教した。16世紀にまちは衰退を始め、17世紀に流行が逆転し宗教施設が数箇所設置されるまで、人口が2500人を下回った。マリー・ド・メディシスは大聖堂で聖香油を塗られ戴冠している。
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