12世紀: 教会と皇帝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 03:01 UTC 版)
12世紀、モンツァには7000人の住民がいたと推計されている。重要な産業は農業であったが、手工業も発展を見せ始めていた。 1128年、モンツァのサンミケーレ教会でホーエンシュタウフェン家のコンラート3世が神聖ローマ皇帝として戴冠した。1135年、コンラートはロタール3世によって王位の放棄を余儀なくされる。同年、教皇インノケンティウス2世はモンツァの教会を保護して資産と特権を認めた。翌年、ロタールはモンツァの聖職者のミラノからの独立を認めた。これによって、モンツァは自治を取り戻した。 「バルバロッサ」の名で知られる皇帝フリードリヒ1世は、おじのコンラート3世とともに1158年と1163年の二度にわたってモンツァを訪れている。この時期、ロンバルディア同盟の盟主であるミラノは皇帝に対して強く敵対的な教皇派(ゲルフ)の都市であり、ミラノと敵対関係にあるモンツァは皇帝派(ギベリン)の拠点として重要な位置を占めることになった。フリードリヒはモンツァが自らの財産であることを明言するとともに、課税に関する特権を与えている。1185年、フリードリヒ1世がロンバルディア同盟とコンスタンツ条約を結んで和睦すると、モンツァの独立も失われ、聖堂の財産管理もミラノに移されることになった。 1185年、フリードリヒ1世の子であるハインリヒ6世は、シチリア女王コスタンツァとの結婚に際し、モンツァで戴冠を行っている。
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