12世紀から15世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 03:25 UTC 版)
「ヘルフォルト」の記事における「12世紀から15世紀」の解説
ヘルフォルトは、中世には重要な宗教的・精神的中心地の一つであった。当時のこの街は、5つの市門や様々なツンフトに割り当てられた 14の塔を持つ、ドイツで最も堅牢に護られた都市の一つであった。長さ 3.5 km の市壁が設けられ、ヴェル川、アー川、市濠に囲まれていた。現在は土砂で埋まっているボヴェレが元のヴェレ川の川筋で、現在のヴェレ川は都市防衛施設の一部であった。都市防衛施設がもはや必要なくなった 1765年に、防衛施設を形成していた建築資材は競売にかけられた。現在では、多くの部分が歩行者専用道や自転車道に転用された土塁跡が内市街を取り囲んでいる。 シュタウフェン朝の時代、ヘルフォルト修道院は帝国直轄の修道院であったことが証明されている(1147年の書類およびフリードリヒ・バルバロッサによる1152年の書類)。その後、皇帝は修道院や市に対して様々な特権を授けている。女子修道院長は司教に準ずる権利を有する帝国諸侯となった ("Monstrum Westphaliae")。1170年頃に市民自治が形成され、都市権が拡大された(授与証は遺されていない)。この際、ドルトムントの都市権がそのモデルとなった。13世紀の初めまでには、ヘルフォルトは都市参事会を有していた。ヘルフォルトの市議会に関しては、1220年頃に最初の記録が遺されている。これはドイツで最も古い例の一つである。修道院と市との共同統治による自治地域は、13世紀半ば以降帝国都市権を有していた。 ヘルフォルトは、ラードベルゲン都市同盟やその他の都市同盟の一員となり、ハンザ同盟の中でも非常に活発に活動を行った(1342年から17世紀に入るまでハンザ都市であった)。その安全性から、当時のほぼすべての修道会がその宗教上の支部をこの街に置いていた(この街は「聖ヘルフォルディア」と呼ばれた)。活発な商業活動は早くからハンザ地域を超えて発展したが、西(フランドル)との関係も重要であった。毛織物(13世紀以降)は特に重要な交易品であった。1375年頃のヘルフォルトの法記録書には数多くのギルドやツンフトの記述がある。 ノイシュタットは1634年までは独立した街であり、アルトシュタットとは別の固有の市長を有していた。中世ヘルフォルト市の外周(防衛境界線)は1969年までヘルフォルトの市境とされていた。
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