ローマ王家に臣従
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/31 09:47 UTC 版)
「ボレスワフ1世ヴィソキ」の記事における「ローマ王家に臣従」の解説
アルテンブルクでの退屈な生活に飽きて、ボレスワフは保護者であったコンラート3世の宮廷に行き、ドイツの政治問題の大半に参加した。1148年にコンラート3世がコンスタンティノープルや聖地周辺を訪れている時に第2回十字軍に参加した。 コンラート3世はヴワディスワフ2世のポーランドへの帰還の保証に成功することなく、1152年に没した。彼の後継者は甥のフリードリヒ1世であり、ボレスワフは引き続きフリードリヒ1世に従った。しかし、フリードリヒ1世はヴワディスワフ2世を助けることをせず、神聖ローマ皇帝に戴冠するためにローマへの遠征を行った。ボレスワフはこの遠征に参加した。 1157年になってついに、フリードリヒ1世はポーランドへの遠征を計画した。ヴワディスワフ2世とボレスワフ達が遠征に直接参加していたかは不明である。衝突の結果、軍事的勝利とボレスワフ4世のフリードリヒ1世に対する屈辱的な降伏となっても、ヴワディスワフ2世の期待はずれな結果に終わった。ボレスワフ4世はフリードリヒ1世に臣従し、一方のフリードリヒ1世はポーランドをボレスワフ4世と年少の公達の支配を維持することに決めたためであった。2年後の1159年5月30日に、ヴワディスワフ2世はポーランドに戻れないまま亡命先のアルテンブルクで没した。
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