ローマ王后戴冠以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 07:03 UTC 版)
「バルバラ・ツェリスカ」の記事における「ローマ王后戴冠以降」の解説
1414年秋、バルバラは単身ハンガリーからラインラントに向かい、ジギスムントと合流してニュルンベルク、フランクフルト、マインツ、ビンゲン、ボッパルト、コブレンツ、アンデルナッハ、ボンと巡ってアーヘンに向かった。 そして11月8日にアーヘンで行われたジギスムントのローマ王戴冠式でローマ王后として戴冠し、同年12月24日にはザクセン大公ルドルフ3世らの随伴を受けてコンスタンツへと船で入城、コンスタンツ公会議開催に同行した。 バルバラは公会議前後のハンガリー王国統治を引き受けていた。 この間は姉アンナの婿で宮中伯のガライ・ミクローシュとグラン大司教カニザイ・ヤーノシュによる補佐を受けた。 ミクローシュが駐仏大使となり、ヤーノシュが1418年に死去すると、1419年のジギスムントの帰還までの間バルバラが国政を主導することになる。 バルバラは結婚後の生活の大半をハンガリーで過ごしたが、夫は数多くの国の統治者として他国に出向くことも多く、このためバルバラは夫が不在だった1412年、1414年、1416年、1418年にハンガリーの摂政を務めた。後に教皇ピウス2世となる人文主義者エネア・シルヴィオ・ピッコローミニによれば、バルバラは夫と同様に愛人を囲い、愛人たちの「ハレム」を作っていた。こうした不倫に怒ったジギスムントは1419年、バルバラをオラデアに追放したが、1421年にはバルバラは許されて宮廷に戻っている。[要出典] ジギスムントの帰還後はジギスムントに同行して帝国各地をまわった。 1420年にバルバラはブレスラウ国会に出席してジギスムントが対ドイツ騎士団政策を転換したのに立ち会い、1424年3月にはクラクフで新ポーランド王妃ゾフィアの戴冠式に列席している。 バルバラは1431年から行われたジギスムントのローマ遠征には同行せず、従って1433年5月31日の神聖ローマ皇帝戴冠式には参加しなかった。 その後、1920年のジギスムントのボヘミア王戴冠以降ほとんど関与してこなかったボヘミアに行き、1437年2月11日にプラハでボヘミア王妃としてようやく戴冠した。 バルバラは自分の兄フリデリクとその息子ウルリクと共謀し、夫の死後のボヘミア王位を娘婿のオーストリア公アルブレヒトではなく、ポーランド王ヴワディスワフ3世に差し出そうとした。[要出典]この陰謀を知ったジギスムントは1437年12月5日にバルバラをブラチスラヴァに監禁したが、その4日後の12月9日にジギスムントは亡くなった。
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