結婚後の生活
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1925年5月12日、ドイツ・アーヘンのユダヤ人資産家アブラハム・ホーレンダーの娘エーディト・ホーレンダーとシナゴーグで挙式して結婚した。二人が知り合ったのは銀行業務を通じてだったといい、資産家の娘である彼女の実家からフランク家の銀行への経済支援を期待しての政略結婚であったとみられる。しかしオットーとエーディトは気も合った。二人はともに裕福なユダヤ家庭に育ち、芸術や自然の愛好者であった。また両者ともユダヤ人ながらそれほどユダヤ教に熱心ではなく、宗教を瑣末なことと考えていた。二人のハネムーンはイタリア旅行であった。二人ははじめフランクフルトのヨールダンシュトラーセにあるオットーの母の家で暮らしていたが、1927年には母元を離れて同じフランクフルトのマルバッハヴェークのアパートへ移住している。1926年2月16日に長女(マルゴット・ベッティー・フランク)、1929年6月12日に次女(アンネリーズ・マリー・フランク)が生まれた。 フランク家の銀行経営は相変わらず軌道に乗っていなかったが、家族に金銭的不自由を掛けるほどではなく、フランク一家は週末にはよく旅行に出かけている。地元の名所遺跡やエーディトのアーヘンの実家などによく遊びに行っていた。スイスのオットーの従姉妹の別荘にアメリカの友達ネーサン・ストラウス・ジュニア(伯父イジドーが1912年タイタニック号沈没事件で死亡し、メイシー百貨店はイジドーの子供たちが継いでいた。ネーサンは代わりに「エイブラハム&ストラウス」社を経営していた)を招待して休暇を過ごしたりもしている。 ドイツ国内でベルリンに次いでユダヤ人人口が多いフランクフルトは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)による反ユダヤ主義運動が激しい場所だった。ナチスが成長してくるとフランクフルトでも反ユダヤ主義デモを行う突撃隊隊員の姿がよく見られるようになった。1932年にオットーはエーディトと相談して、ドイツを離れる事を考えたというが、亡命先で生活の糧を得られる見込みがなく、断念したという。突撃隊員は『シオン賢者の議定書』などユダヤ陰謀論系の文書をばらまいており、オットーのアパートの大家はこうした文書に影響を受けていた。おそらくその影響で1931年3月にオットーたちはアパートを引き払っている。ガングホーファーシュトラーセ24番地の新興住宅地のアパートへ移ることとなった。ここは前のアパートよりは狭かったが、広い裏庭があり、マルゴーとアンネの遊び場にするのにちょうどよかった。 世界大恐慌でフランク家の銀行のオランダ支店が閉鎖し、さらに弟のヘルベルトは外国証券の売買を禁止した法律に違反した容疑で逮捕され、フランクフルトの証券取引場は1931年夏にフランク家の銀行との取引を無期限に停止した。これによりフランク家の銀行は一気に経営が苦しくなってしまった。後にヘルベルトは1933年10月に再審で勝訴し、罰金刑の免除を受けているが、その頃には手遅れになっていた(銀行は最終的にオットーのオランダ移住後の1934年1月に閉鎖している。いよいよフランク家はアパートの家賃を払うのが難しくなり、ヨールダンシュトラーセにあるオットーの母の家の同居に戻っている。ただ日常の生活はあまり変わらず、相変わらずフランク家は日帰り旅行や友人や親族の家に遊びに行っている。
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結婚後の生活
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世間から横井は戦後の日本の変化に適応できるかどうかが心配されたが、驚くほど素直に戦後の日本に馴染んだ。ただし、戦前と帰国後でインフレーションから円の貨幣価値が大きく変わっていたため、大切な上記の寄付金や横井の財産の管理は全て妻の美保子が行った。 また、帰国からしばらくは日本列島に「軍人ブーム」が到来し、地域によっては「軍歌バー」なるものもできた。横井自身も様々なイベントに引っ張りだことなり、歌番組「夜のヒットスタジオへのゲスト出演などタレント活動も行い、一時はその“浦島太郎ぶり”で人気になった。 1973年には、春頃の小松左京の小説「日本沈没」のブームや、秋に起きた日本でのオイルショックが影響して、横井のもとに全国から講演依頼が殺到。横井は日本でただ一人の「耐乏生活評論家」(あるいは生活評論家とも)として、全国各地でグアム時の節約生活について自らの経験を語ったり、雑誌等でも災害時のサバイバル術についてインタビューを受けた。1974年2月には、初の著書となる戦時中にグアムのジャングルで生き延びた話を綴った、「明日への道」を出版しベストセラーとなった。ちなみに横井は、28年に及ぶジャングルでの生活の影響で、帰国後も火を通さない生魚の刺身に対して警戒心があり、食べられない訳ではないがあまり喜ばなかったという。
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