結婚後の私生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 02:52 UTC 版)
湯原は、母・吉の(よしの)と母子で生活していたため、荒木由美子は湯原との結婚と同時に芸能界から引退し専業主婦になり(1990年代まで主婦タレントとしてCMなどに出演することはあった)、母と同居することになる。結婚して2週間後、母が糖尿病からくる足にできた血栓のため入院。退院後は荒木による食事療法が始まったが、5年後の1988年、幼稚園児になっていた長男が、母の奇行を荒木に告げ、湯原の耳にも入る。病院での検査の結果、母は認知症であることが判明。ここから湯原・荒木夫妻のすさまじい介護生活が始まる。 母の介護は主に荒木が担当するも、症状が日に日に悪くなっていく毎日であるため、湯原も仕事場では笑顔であるが心労が隠し切れない日々が続く。帰宅すれば「生き地獄」「壮絶」という言葉しか当てはまらないほど、母の認知症は悪化していた。あまりの症状の悪化で、精神的に滅入っていた湯原が母の首に手をかけるところまでいくが、荒木の悲痛な叫びによって最悪の事態を免れる(荒木談)。自宅での介護を諦めて、荒木が母を連れて紹介された介護施設を訪れるが、そこは精神科の施設で、窓に鉄格子が取り付けられている施設だったため、さすがの荒木も「あまりに可哀想…」と、母を連れて自宅へ戻る。 その後、母は病院に入院することになるが、転院のたびに病状は悪化。認知症との壮絶な闘いは14年間続くも、その間、湯原は荒木に対し常に「由美ちゃん、ありがとう」「悪いね」といった感謝の言葉を欠かさなかった。そして2003年1月、母は急性白血病で死去。母が意識をなくす3日前には認知症であるとは思えないほど、嫁である荒木に感謝の言葉をかけ、長男にも「昌幸にそっくり」などと、まもなく訪れる最期を知らせるかのように、夫妻と長男の3人にやさしい言葉を残した。 母が死去したことで、結婚して2週間後から始まった夫妻の壮絶な20年間の介護生活は幕を閉じる。荒木は母の死去で生きる気力を一時失うが、2004年、母の20年間に渡る壮絶な介護生活を執筆した『覚悟の介護―介護20年 愛と感動の家族物語』の発売を機に、20年ぶりに芸能界へ本格復帰。湯原も「冬桜」のヒットで各方面からの出演依頼があり、結婚20年目にして、歌手として初めて荒木と夫婦揃っての共演を果たす。
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