銀行経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 08:09 UTC 版)
1959年に、経営難に陥っていたクマクムラン銀行(インドネシア語版)に華人5名とともに20万ドルを出資し、株式の66%を取得して会長兼頭取に就任した。最初は貸方と借方を分ける意味もわからなかったが、半年ほどで財務諸表を読めるようになったという。しかし貸出利子を着服する幹部の存在などからクマクムラン銀行の経営を離れ、故郷のバトゥで華人の出資者を募って1963年にブアナ銀行(インドネシア語版)を買収して銀行業を本格的に始めている。また、1960年代半ばにはインドネシア大学の夜間部に通って経済学を学んだ。 スハルトへの政権移行にともなうインフレーションの沈静化を予想して貸出金利を引き下げる代わりに担保を取るなどの施策が奏功して経営は安定し、1966年には経営難のクマクムラン銀行やインドネシア工商銀行を傘下に加え、さらにスラバヤに新銀行を設立している。これら3行は1971年に合併してパン・インドネシア銀行となったが、親族の関係する不正融資などを機に1975年に辞職した。また、1960年代末頃に貿易支援を業務とするリッポー社を創業している。当時はエネルギー産業への参入が念頭にあり、「力の源泉」という意味で「力宝(リッポー)」という名前を付けたという。リッポーはシンガポールや香港にも法人を設立し、外貨を扱えないインドネシアの銀行では不可能な信用状の発行を国外の銀行に依頼する輸入代行業を手がけ、パン・インドネシア銀行の取引先などを顧客としていた。
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