ローマ字による日本文学作品
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 08:48 UTC 版)
「ローマ字論」の記事における「ローマ字による日本文学作品」の解説
歌人で国語学者の土岐善麿は1910年(明治43年)、「ローマ字ひろめ会」から第一歌集『NAKIWARAI』を「土岐哀果」の号で刊行した。この歌集はローマ字綴りの一首三行書きという異色のものであり、善麿はこれを契機にローマ字運動に参加した。翌1911年(明治44年)には「日本のローマ字社」から『MUKASIBANASI(昔バナシ)』を刊行、1924年(大正13年)には「日本のローマ字社」から『HYAKUNIN ISSYU(百人一首)』を刊行している。 1910年(明治43年)12月に第一歌集『一握の砂』を出版した石川啄木は、『NAKIWARAI』の批評を執筆したことが縁で善麿と知り合い親交を深め、啄木が病没するまで交友が続いた。啄木はその前年の1909年(明治42年)4月から、ノートにローマ字の日記「ROMAJI NIKKI」を記しており、死後に『ローマ字日記』として公刊された。啄木がローマ字で日記を書いていたのは内容を妻に読まれたくなかったからである。 「土岐善麿」および「石川啄木」も参照
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