思想・文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 10:00 UTC 版)
長州藩では幕末以前においても、倒幕が国是であるとの噂が常にあった。巷説の一つに、新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立て、藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったとの俗話が知られる。昭和2年(1927年)、歴史学者の井野辺茂雄が『幕末史の研究』において、毛利家の家史編纂者である中原邦平から聞いた話として著作に紹介している。井野部の記述では、毎月元日、諸藩士が登城する前に藩主が「もうよかろうか」と言い、近臣が「まだお早う御座います」と返すというものであったとしている。ただし、これは古老による伝承であると断っており、「後世にはなかった」としている。この俗話について、平成12年(2000年)当時の毛利家当主・毛利元敬は「あれは俗説」と笑い、「明治維新の頃まではあったのではないか」という問いに「あったのかもしれないが、少なくとも自分が帝王学を勉強した時にはその話は出なかった」と答えている。 弘前藩重臣だった山鹿素水に吉田松陰ら多くの長州藩士が師事し、明治維新で活躍した高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、山田顕義らの松陰門下生は、藩校・明倫館、松下村塾で山鹿流を習得している。弘前藩は「勤皇」を藩風とし奥羽越列藩同盟から早期に脱退、戦後に新政府より1万石を加増されている。 朝廷と天皇権威の回復を望む後西上皇・霊元天皇から高評価だった吉良義央には同情的であり(反対に義央は親幕府の近衛基熙とは不仲)、支藩の長府藩が赤穂浪士を厳しく扱ったのを容認している。 長州藩(主として浦上氏 )は弘前藩邸の近隣で産まれた葛飾北斎の作品を多数購入し、今も萩に多くが現存している。北斎は元禄赤穂事件で討たれた小林央通の曾孫であり、長府藩の毛利師就は享保10年(1725年)、江戸城の松の廊下にて乱心した水野忠恒に斬りつけられたが、吉良義央に倣い刀を抜かずに対応し、一命を取り留めている。 明倫館は享保3年(1718年)、毛利吉元により萩に開設された。山口に藩庁が移された際には、文化12年(1815年)に分館ができ並立することとなる。反朱子学を標榜する著作が多く、責任者として明倫館総奉行の職が設置された。萩明倫館は、敷地内に明倫小学校が建設され、跡地や遺構(「有備館」「聖賢堂」など)は昭和4年(1929年)12月17日、国の史跡に指定されている。
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