統一国家イタリア・ドイツの成立と政教関係
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「統一国家イタリア・ドイツの成立と政教関係」の解説
詳細は「イタリア統一運動」、「ローマ問題」、「ドイツ帝国」、および「文化闘争」を参照 ウィーン体制以降、とくに1830年代以降のイタリアでは、政治、文学、思想、科学などいたるところで「イタリア(人)」意識の高揚がみられ、宗教界でも1846年にローマ教皇に即位したピウス9世は教会国家の諸改革に着手し、北イタリアにおけるオーストリア支配の現状にも遺憾の意を表明して「ナショナルな教皇」という印象をあたえた。しかし、1848年革命とそれにつづく第1次イタリア独立戦争(イタリア語版、英語版)でピウス9世がカトリックの長としてオーストリアとの戦争には加われないことを声明すると、イタリア統一を願う人々には失望が広がった。それ以降のイタリア統一運動を主導したのは、憲法と議会を唯一存続させていたサルディーニャ王国であった。首相カミッロ・カヴールが自由主義的諸政策によって近代化を進めて反教権主義と世俗化を推進し、フランスのナポレオン3世の協力を得てオーストリアからロンバルディアなどを得ることに成功した。さらに、イタリア南部地方も「青年イタリア」のジュゼッペ・ガリバルディがナポリ王国を征服してサルディーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上し、これらをもととして1861年には民族国家イタリア王国を発足させた。イタリア王国は1870年の普仏戦争に際しては教皇領をも併合し、ここにイタリア統一が完成した。 1869年から1870年にかけてはローマのサン・ピエトロ大聖堂において第1バチカン公会議が開かれ、ローマ教皇の無謬性(教皇不可謬説)と公会議よりも教皇その人が優越すること(教皇首位説)とが宣言された。ウルトラモンタニズムの方針がこうして打ち出されたものの、教皇領併合によって俗界権力を失ったピウス9世は「バチカンの囚人(英語版)」を自称し、イタリア政府との対決姿勢を崩さなかった。1871年5月にはイタリア政府が教皇保障法(英語版)を制定し、教皇の地位の保証と年金の支給、そしてチッタ・レオニーナ(英語版)(現在のバチカン市国の地域)におけるローマ教皇庁の統治と独立を一方的に定めたが、教皇ピウス9世は即座に拒絶の回勅を発した。1874年には「ノン・エクスペディト(英語版)」(「ふさわしくない」の意)を宣言し、イタリアの全カトリック教徒に対して国政選挙への立候補と投票を禁じた。 教皇権力と断絶して世俗主義を打ち出したイタリア政府は、教皇への配慮ぬきにイタリア全土に施行した修道院・宗教団体廃止法で教会の土地を没収して売却し、そこから利益を得た。土地購入者は地主層に限られ、小作農に分配されることはなかった。聖俗両権力のこのような断絶は、1929年に教皇庁とファシスト政権との間にラテラノ条約が締結されるまで50年以上続いた。 ドイツでは、統一の主導権をめぐってプロイセン王国とオーストリア帝国の対立が存在していたが、この対立はすでにドイツ関税同盟を結成し、経済力で優位に立っていたプロイセン側が「小ドイツ主義」を掲げて勝利した。プロイセンは首相オットー・フォン・ビスマルクの指導のもと、普墺戦争と普仏戦争の両戦争でオーストリアとフランスを相次いで破り、1871年にはドイツ帝国の成立を宣言した。ドイツ帝国は大小22の国家と3自由都市からなる連邦制で、プロイセン王がドイツ皇帝を兼ねた。ドイツ帝国議会は男子普通選挙で選出されたが内閣制度は採用されなかった。帝国宰相となったビスマルクは「ビスマルク外交」と称される巧妙な外交でフランスを孤立させて国内的には産業を保護して育成し、工業化を推進した。 ビスマルクは政治的には真正の保守主義者であったがそれ以上に現実主義者であり、必要とあれば自由主義者や民主主義者とも妥協し、提携できる人物であったと評される。ドイツの政治思潮は1870年代後半には自由主義から保守主義へ転換していくが、それはビスマルクが1871年から1876年にかけておこなった「文化闘争」と称される反教権主義的・反カトリック的な諸政策と結びついて展開した。自由主義者たちと提携したビスマルクは、文化闘争を「カトリック教会の反近代主義的迷妄を打ち破り、国民文化を守るための戦いである」と主張し、プロイセン支配に抵抗する南ドイツのカトリック教徒やポーランド人などの少数派を抑えて国民意識の育成を図ったのである。 上述したように、第一回バチカン公会議は1870年にローマ教皇の無謬性を宣言し、自由主義的な政治体制・経済体制を批判した。ドイツ国内では、国民自由党はルター主義の立場から、急進的自由主義者たちは近代科学主義の立場からこれに反発した。カトリック教徒のあいだでも意見の衝突が起こり、ミュンヘン大学のヨハン・イグナツ・フォン・デリンガーは教皇不可謬説を批判して教皇から破門され、復古カトリック教会に合流した。オランダ起源のこの教会は、この問題を機にスイスやオーストリアへも広がった。ビスマルクはカトリックの教理については無関心だったが、教会内の内紛が聖職者の任免問題に発展するにおよぶと介入し、1871年の教壇条例、1872年の学校監督法によって学校教育におけるカトリック教会の監督権の排除を図った。この時点では、ビスマルクの反教権政策は政教分離の立場からする防衛戦の様相を呈していた。 1870年12月、ドイツでカトリック中央党が結成された。中央党は、オーストリアが除外されたためにプロテスタントが支配的となったドイツ帝国にあって少数派となったカトリック信者の利害を代表する政党であったが、ビスマルクはこの党を統一ドイツに対する反政府勢力の震源地とみなして「帝国の敵」と呼んだ。実際、中央党は統一主義に対する連邦主義、旧プロイセンに対する西南ドイツ、国民自由党の支持母体である大資本に対するところの中産階級や労働者など広汎で多様な勢力を引きつけ、ポーランド人、新領土となったエルザス(アルザス)・ロートリンゲン(ロレーヌ)の人々、ヴェルフ派(ハノーファー王朝復辟派)などのマイノリティも中央党との提携を図った。 ビスマルクは1873年に五月諸法を制定し、聖職者の養成や認定、カトリック系教育機関の管理を教会から帝国の監督下へ移し、帝国内のイエズス会の活動を禁止したほか、出生・死亡・結婚など戸籍事務を国家へ移譲したうえ、不服従の牧師・聖職者の国外追放などを断行した。これ以降の「文化闘争」は強圧的・攻撃的な性格のものとなり、信教・良心の自由を侵害するものを含んでいたが、ドイツの自由主義者たちはエドゥアルト・ラスカー(ドイツ語版)など少数の例外を除いてビスマルクの反カトリック政策を支持ないし追認した。反カトリック的諸法に抵抗した多くの聖職者は追放あるいは投獄されたが、このような弾圧はかえって中央党の議席を飛躍的に伸ばす結果となり、ルター派とプロイセン国家の結合を重んじる保守勢力のなかにも反対者を生んだ。ビスマルクはカトリックの指導者ルートヴィヒ・ヴィントホルスト(ドイツ語版)と和解し、1879年に文化闘争は終結した。 イタリアとドイツでは、このようにウルトラモンタニズムとの激しい闘争をともなう緊張関係を通じて統一国家を形成し、そのなかで近代化と政教分離を図っていったのである。
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