普墺戦争と普仏戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 09:30 UTC 版)
「アルブレヒト・フォン・ローン」の記事における「普墺戦争と普仏戦争」の解説
デンマークに勝利したプロイセンとオーストリアはシュレースヴィヒ=ホルシュタインをめぐって対立を深めていき、1866年6月に普墺戦争が開戦した。ローンはこの戦争中に歩兵大将に昇進している。しかしローンの戦争指導への介入は限定的にならざるを得なかった。開戦直前の6月2日の勅令によって参謀総長モルトケに陸軍大臣に図らずとも全軍に命令を下せる権限が与えられたためである。 それでもなおローンはしばしばビスマルクと結託してモルトケと対立した。モルトケがオーストリア側に付いた南ドイツ諸国に対する戦線に投入予定の二個軍団をオーストリアとの主戦場へ移そうとしたことにローンとビスマルクは反対して、これを阻止した。また逆にローンとビスマルクがフランスを牽制するために一個軍団をライン川に置こうとした際にはモルトケがこれに反対して阻止している。 ケーニヒグレーツの戦いの勝利後のウィーンに進軍するか否かの論争においては、ローンは当初ウィーン進軍を主張するも、後にビスマルクやモルトケと同じく批判的になっていった。国王ヴィルヘルム1世はウィーン進軍にこだわっていたが、ビスマルクと皇太子フリードリヒがヴィルヘルム1世を説得した結果、ウィーン進軍は中止され、プロイセンはオーストリアと講和に入った。 普墺戦争の勝利でオーストリアはドイツから追放され、プロイセン国王を盟主とした北ドイツ連邦が樹立された。北ドイツ連邦宰相を兼務するようになったビスマルクは南ドイツ諸国との統一のため、フランスとの対立を煽るようになり、スペイン王位継承問題をめぐって1870年に普仏戦争が開戦した。この戦争でも指揮権は参謀総長モルトケが握っており、ローンはモルトケと対立を深めていった。近衛砲兵連隊長をしていたローンの次男はセダンの戦いで戦死している。パリ包囲戦中、パリ砲撃に反対したモルトケに対し、ローンとビスマルクは砲撃を主張した。最終的にはモルトケが折れてパリへの砲撃が行われることになり、パリはまもなく開城され、アドルフ・ティエール政府との間に休戦協定が締結された。 1871年に伯爵位を与えられた。
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