普墺戦争の敗戦
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「フランツ・ヨーゼフ1世」の記事における「普墺戦争の敗戦」の解説
詳細は「普墺戦争」を参照 イタリアで失敗した後、オーストリアの関心はもう一つの主要な利益圏であるドイツに向けられ、ドイツ連邦の指導的地位を再び主張するようになった。これはプロイセン王国主導の小ドイツ主義的な関税同盟に対する挑戦であり、プロイセンとの伝統的な対抗関係が復活した。イタリア戦線に援軍を送らなかったことを「背信行為」として、フランツ・ヨーゼフはプロイセンを公然と非難した。 プロイセン主導のドイツ統一に燃えるプロイセン首相ビスマルクは、ハプスブルク支配下の諸民族の民族主義者たちを援助して扇動したり、ナポレオン3世にはフランス語圏の支配権移譲をちらつかせるなどして、オーストリアとの決戦に備えて準備を進めていた。それに対してオーストリアはほとんど何も準備せず、開戦を望んでいる者はほとんどいなかった。フランツ・ヨーゼフはあくまで平和的解決を願っており、1866年4月8日の閣議でもオーストリア政府の和平の意志が再確認された。しかしプロイセンはさまざまな形でオーストリアを挑発し、ついには普墺戦争の開戦に至った。1865年にオーストリアは自由主義的憲法を停止していたが、それでも自由主義的なドイツ諸国家のほとんどはオーストリア側に付いた。 消極的な自軍指揮官ルートヴィヒ・フォン・ベネディク(英語版)に決戦を命じた結果、ケーニヒグレーツの戦いで大敗を喫し、プロイセン軍に首都ウィーンに迫られて不利な講和を結ぶこととなった。この際、北イタリアに残されていたオーストリア領ヴェネトは、プロイセンに味方していたイタリア王国(1861年に成立)に割譲された。ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝としてドイツの君主の首位を占めてきたし、ドイツ連邦の議長職にあったことでその後も象徴的な指導権を維持していたが、敗戦によってオーストリアはこれらの威信と権力を喪失した。 普墺戦争後も、オーストリアはドイツから完全に締め出されたわけではなかった。その後の数年間、フランツ・ヨーゼフ1世は自国の地位の回復を試み、ドイツ統一問題における発言権を取り戻そうとした。とはいえ、大ドイツ主義ではなく小ドイツ主義が勝利したことによって、オーストリアは従来の西方重視の政策を東方主体に転換せざるをえなくなった。また、イタリアの領土を失ったことで南方からも追い払われ、オーストリアは必然的に中・東欧に活路を見出すほかなくなった。この敗戦後に、ベーメン、メーレン、ハンガリーに目を向けた「ドナウ君主国」という観念が急浮上した。
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普墺戦争の敗戦
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「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「普墺戦争の敗戦」の解説
詳細は「普墺戦争」を参照 イタリアで失敗した後、オーストリアの関心はもう一つの主要な利益圏であるドイツに向けられ、ドイツ連邦の指導的地位を再び主張するようになった。これはプロイセン王国主導の小ドイツ主義的な関税同盟に対する挑戦であり、プロイセンとの伝統的な対抗関係が復活した。イタリア戦線に援軍を送らなかったことを「背信行為」として、フランツ・ヨーゼフはプロイセンを公然と非難した。 プロイセン主導のドイツ統一に燃えるプロイセン首相ビスマルクは、ハプスブルク支配下の諸民族の民族主義者たちを援助して扇動したり、ナポレオン3世にはフランス語圏の支配権移譲をちらつかせるなどして、オーストリアとの決戦に備えて準備を進めていた。それに対してオーストリアはほとんど何も準備せず、開戦を望んでいる者はほとんどいなかった。フランツ・ヨーゼフはあくまで平和的解決を願っており、1866年4月8日の閣議でもオーストリア政府の和平の意志が再確認された。しかしプロイセンはさまざまな形でオーストリアを挑発し、ついには普墺戦争の開戦に至った。1865年にオーストリアは自由主義的憲法を停止していたが、それでも自由主義的なドイツ諸国家のほとんどはオーストリア側に付いた。 消極的な自軍指揮官ルートヴィヒ・フォン・ベネディク(英語版)に決戦を命じた結果、ケーニヒグレーツの戦いで大敗を喫し、プロイセン軍に首都ウィーンに迫られて不利な講和を結ぶこととなった。この際、北イタリアに残されていたオーストリア領ヴェネトは、プロイセンに味方していたイタリア王国(1861年に成立)に割譲された。ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝としてドイツの君主の首位を占めてきたし、ドイツ連邦の議長職にあったことでその後も象徴的な指導権を維持していたが、敗戦によってオーストリアはこれらの威信と権力を喪失した。 普墺戦争後も、オーストリアはドイツから完全に締め出されたわけではなかった。その後の数年間、フランツ・ヨーゼフ1世は自国の地位の回復を試み、ドイツ統一問題における発言権を取り戻そうとした。とはいえ、大ドイツ主義ではなく小ドイツ主義が勝利したことによって、オーストリアは従来の西方重視の政策を東方主体に転換せざるをえなくなった。また、イタリアの領土を失ったことで南方からも追い払われ、オーストリアは必然的に中・東欧に活路を見出すほかなくなった。この敗戦後に、ベーメン、メーレン、ハンガリーに目を向けた「ドナウ君主国」という観念が急浮上した。
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