シチリア革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 14:58 UTC 版)
「ピエトロ・グラヴィーナ」の記事における「シチリア革命」の解説
1816年、ウィーン体制の確立とともにシチリア島とイタリア南部を合わせた両シチリア王国が建国され、シチリア島はナポリの文化や社会制度を押し付けられただけでなく1812年シチリア憲法(イタリア語版)も廃止に追い込まれた。このことからシチリア島では常に分離独立と立憲革命への火種がくすぶっており、グラヴィーナがパレルモ大司教区(イタリア語版)の大司教に着任したころにはその動きはピークに達しようとしていた。そして1820年6月15日にはスペイン立憲革命に触発され、分離独立派や立憲革命派が立ち上がりパレルモの武器庫から14000もの銃器を奪う「パレルモ暴動」がジュゼッペ・アリアータ主導のもと発生し、これはシチリア革命の序曲であった。 グラヴィーナは枢機卿という保守的な立場ゆえ、一貫してこの暴動を支持しなかった。武力による革命を否定し、蜂起や暴動を強く批判して、市民による暴動を枢機卿そしてシチリアの中心都市パレルモを司る大司教としての発言力を用いて鎮めようとした。このため当初は、ジュゼッペ・アリアータなど革命勢力とは意見を異にした。しかし一方では、グラヴィーナ自身も祖国であるシチリア王国が滅んでシチリア島が両シチリア王国としてナポリに服属している現状を快く思ってはいなかったため、市民の行動には一定の理解を示した。暴動に参加した人々やその暴動によって住む場所を追われた貴族階級などを分け隔てなくパレルモ大司教宮殿(イタリア語版)に匿った。 このような行動から貴族などの保守派、暴動を扇動した急進派の両方から一定の支持を得て、1820年7月18日にはシチリア革命により成立したシチリア革命政府の初代総裁に選出された。グラヴィーナは当初これを受諾したが、立憲革命を容認しない教皇庁との関係性など様々な障壁が存在していたため数日で辞任。総裁はパレルモ暴動を主導したジュゼッペ・アリアータが引き継いだ。
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