革命失敗後
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3月24日、フェルディナンド1世はオーストリア帝国軍の護衛の下ナポリに入城して議会の停止や暫定憲法の廃止を実施した。革命によって獲得したものはこれにて水泡に帰し、さらにはナポリに残る革命の主要人物は次々と逮捕された。その中には亡命に失敗したジュゼッペ・シルヴァティ、ミケーレ・モレッリも含まれており、二人は1822年9月11日、カルボナリに加担した罪や革命を主導した罪で公開絞首刑に処せられた。 また、このナポリ革命も含め同時期にカルボナリは幾つかの蜂起を実施しているが、いずれも無計画かつ大国を相手とするには無謀なものばかりであり、結果はすべて失敗に終わっている。この結果、立憲革命を目指すカルボナリは理想はあれど実現力は無いとして民衆の支持を失っていき、マッツィーニが主導する「青年イタリア」の台頭に結び付いた。
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革命失敗後
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モデナ公フランチェスコ4世が戻ったモデナ=レッジョ公国では、モデナ仮政府総裁を務めたヴィンチェンツォ・ボレッリ(イタリア語版)とチーロ・メノッティが処刑された。また以前よりも厳しい反動政治が展開され、再度の蜂起の望みはほぼ絶たれてしまった。 教皇領では進撃したオーストリア帝国軍がそのまま駐留。ロマーニャやマルケなどでは撤退した途端に再度反乱が発生するなどの事態に陥った事もあり、1832年には二度目の駐留を実施した。また勢力均衡の観点からフランス軍はアンコーナに上陸し1838年にオーストリア帝国軍が教皇領から撤退するまでアンコーナの一区画を占領し続けた。 またナポリ革命やシチリア革命、ピエモンテ革命同様に今回の革命でも民衆の遊離が目立った。革命仮政府の実権を握ったのは穏健自由主義の立場に立つ名士、もしくはカルボナリの有力者ばかりであり、ナポレオン体制下で活躍した貴族ないし上級市民の系譜である彼らは、革命の主体としてはすでに老境に差し掛かっていた。ゆえに積極的な改革がさほど望めず、また国際情勢に関する認識も前時代的であった。そのことから、これを契機にイタリア統一運動の主体は本格的にカルボナリから「青年イタリア」などに代表される新組織へと変化していく。実際に、ブオナローティと意見対立したマッツィーニがカルボナリを離れたのも同時期であり、中部イタリア革命はイタリア統一運動の世代交代の始まりを象徴する出来事であった。
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