中華民国での経歴
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1912年10月、北京政府は熊秉坤を陸軍少将に任命した。 1913年1月、さらに5つの栄誉が授与された。同年、熊秉坤は第二革命に参加、改進団を組織し、後に鄂中司令官を務めた。だが第二革命失敗後、黎元洪の欠席裁判によって指名手配されたため日本に亡命した。 1914年、熊秉坤は中華革命党に参加した。同年秋、熊秉坤は湖北に戻り、孫文から袁討伐鄂軍司令官に任命された。 護法運動が勃発すると、熊秉坤は広州大元帥府参軍、高級副官、代参軍長などを務めた。その後二七大罷工(中国語版)鎮圧ために武漢に戻った。「張国燾回顧録」によると、当時の武漢は中国共産党最後の拠点を呉佩孚の勢力に発見され、一時期は熊秉坤の自宅で会議が開催されていた。中国国民党成立後、熊秉坤は軍事委員会委員を務めた。 1928年4月、熊秉坤は湖北省政府の委員を務めた。 1929年6月、熊秉坤は湖北代表に選出され、南京中山陵での孫文埋葬式典に出席した。また、湖北革命博物館準備委員会委員に選出された。 1929年10月、彼は武昌での「双十祭」全国大会議長を務めた。 1930年2月、湖北省政府が再編成されたが、熊秉坤は湖北省政府委員として再選された。 1930年8月20日、湖北省政府は南京中央政府承認なしに武昌市政府を正式に成立させた。この動きは新市長の熊秉坤が率先した。熊秉坤は市長を務める間、孫文から学び、報酬を受け取らなかった。 1930年9月19日、国民政府行政院は内務部に対して、武昌は市の規定を満たさず、市への昇格は認めないと通達した。 1930年10月、熊秉坤は、再び武昌の「双十祭」全国大会議長を務めた。 1932年3月、南京国民政府は、熊秉坤を国民政府軍事参議院中将に任命した。 1933年、熊秉坤は「辛亥湖北省武昌首義事前運動経過及臨時発難之著述」を出筆した。 1937年の日中戦争勃発後、熊秉坤は軍事参院で徹底抗戦を主張し、多くの提案を行った。 1946年に熊秉坤は退役。第二次国共内戦中は独裁に反対し、平和運動を推進した。中国人民解放軍の武漢占領の前夜、熊秉坤は武漢市民一時救済委員会公安委員の一員として現地の治安維持に務めた。
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