中国国民党成立後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 23:20 UTC 版)
1924年(民国13年)1月、中国国民党が結成されると、胡漢民は中央執行委員会委員に選出された。9月、孫文が北伐を開始すると、胡は広東の留守をつとめて大元帥の職権を代行し、広東省長を兼ねている。翌月、広東商団の反革命蜂起が起きたが、胡はこれを鎮圧して危機を脱した。 1925年(民国14年)3月、孫文が死去すると、胡漢民は大元帥代理としての職務をとることになる。以後、胡は反共右派の立場を明らかにし始め、国民党右派の西山会議派には直接参加しなかったものの、中国共産党粛清の提案を開始するようになる。ところがその矢先の8月20日に、容共左派の指導者である廖仲愷が暗殺されてしまった。胡は首謀者と疑われて失脚し、9月からソビエト連邦へ赴くことになる。1926年(民国15年)4月末に胡はようやく帰国したが、しばらくは表立った活動を控えることになった。 翌1927年(民国16年)4月、蔣介石が上海クーデター(四・一二事件)を起こし、汪兆銘(汪精衛)らの武漢国民政府に対抗して南京国民政府を樹立すると、胡漢民はこれに協力する形で復帰し、古応芬・伍朝枢・張静江と共に南京国民政府常務委員の地位についた。国民党においても、中央政治会議主席、中央執行委員会常務委員兼宣伝部長、中央軍事委員会常務委員などの要職を得ている。さらに『訓政綱領』と『国民政府組織法』の制定を主導し、1928年(民国17年)10月にこれらを公布した。これらに基づいて蔣は国民政府主席に、胡は立法院長にそれぞれ就任している。
※この「中国国民党成立後」の解説は、「胡漢民」の解説の一部です。
「中国国民党成立後」を含む「胡漢民」の記事については、「胡漢民」の概要を参照ください。
- 中国国民党成立後のページへのリンク