中国国民党の成立
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1919年10月10日、結成されたものの活動が停止していた中華革命党を改組する形で中国国民党が結成された。本部は上海に置かれ、党総理には孫文が就任した。 第一次世界大戦後のパリ講和会議によってドイツから山東半島の権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」が盛り上がった。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく。この反日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した。旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェヴィキをモデルとした。ソ連からコミンテルン代表のミハイル・ボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある。他にもソビエト連邦共産党のシステムを学び、ソ連と同様の党国体制を布いた。 1921年に中国共産党が樹立されると、国民党は当初は容共の立場をとり、1922年のコミンテルン極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月にはソ連との連帯を鮮明にした「孫文・ヨッフェ共同宣言」が発表される。1923年6月の中国共産党第3回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン指導で、国共合作が方針となった。1924年1月20日には、共産党との第一次国共合作が成立し、軍閥に対抗するための素地が形成された。陳独秀や毛沢東もこのときに国民党に入党した。 孫文の死後、1925年に上海で発生した五・三〇事件を背景にして、汪兆銘を主席とする広東国民政府を樹立、1926年には、北伐を開始した。1927年に、蔣介石の上海クーデターにより国共合作は崩壊したものの、北伐は継続され、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒すことに成功した。
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