中国国民党成立以後
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1924年(民国13年)1月、国民党の第1回全国代表大会に李烈鈞も参加し、中央執行委員に選出された。1925年(民国14年)に孫文が死去すると、李烈鈞は謝持・鄒魯らの国民党右派(西山会議派)の反共路線を支持する。 1927年(民国16年)4月に蔣介石が南京で国民政府を設立すると、李烈鈞もこれを支持して参加し、国民政府常務委員兼軍事委員会常務委員に任命された。同年8月、蔣介石が一時下野した間に、北京政府側の孫伝芳が南京を目指して進軍してくると、李烈鈞が国民政府側の諸軍を良くまとめ、孫伝芳の撃破に成功している。 1928年(民国17年)以降は南京を離れ、上海で病気療養に努めた。1937年(民国26年)2月の国民党五期三中全会(第5期第3回中央執行委員会全体会議)では、宋慶齢・馮玉祥らとともに、蔣介石に中国共産党と連携して日本に抗戦するよう求めている。なお、同年には、西安事変を起こした張学良の裁判において裁判長を務めた。 1946年(民国35年)2月20日、重慶で死去。享年65(満63歳)。
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