中国国民党の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 09:20 UTC 版)
袁世凱の死後、中華民国には中国全土を完全に統治する「統一政府」が存在しない状態が生まれた(1916年 - 1928年)。そのため、軍閥が群雄割拠する軍閥時代となり、同時に大日本帝国やフランス共和国やアメリカ合衆国などの列強諸国による中国の半植民地化も進行したのである。しかし同時に、この時期には大日本帝国から出された対華21ヶ条要求の廃棄を挙国的に要求する五四運動(1919年)が起きたほか、陳独秀などが主導した新文化運動が広範な人々の支持を受けるなど、中国近代化を象徴する出来事が起こっている。また、1919年の寛城子事件のような日中の衝突に続き、1920年にはシベリアに派遣された中国艦隊が赤軍と協力して日本軍を殲滅する尼港事件を起こすなど戦力を充実させてきた。このような中、孫文は1919年に中国国民党を創建し、1921年には後の国民政府の基となる革命政府を広州で樹立した。 また、孫文は成立したばかりのソビエト連邦(1917年建国)と接触し、その後の1924年には中国共産党党員(1921年創党)がその党籍を保持したままで国民党への入党を認めるという、いわゆる第一次国共合作を行なっている。孫文は1925年に死去したが、1926年になると蔣介石が孫文亡き後の国民党の主導権を握り、広州を起点に北伐を開始、その過程で軍閥なども糾合していくことによって中国の統一が進められた。 1927年に蔣介石率いる国民革命軍が南京を占領するが、ソビエト連邦のコミンテルンと、その指揮下にある中国共産党の指令、扇動による日本、イギリス、イタリア、フランス、アメリカの列強諸国の領事館を襲撃し民間人を虐殺した南京事件が起こる。この事件により蔣介石は共産勢力を敵視するようになり、1927年4月国共合作を解消すると、上海、武漢などの各地方で国民党内部から共産党を掃討する運動、いわゆる上海クーデターを起こした。この際、北伐は一時停滞、国民政府は蔣介石の南京国民政府(1927年4月18日)と、これに反対する汪兆銘等の「武漢国民政府」に分裂する。 しかし、劣勢な武漢国民政府は数カ月後の1927年8月19日には南京国民政府に合流することになり、結果、南京国民政府を主導する蔣介石の権力はより一層強固なものとなった。1928年4月8日に北伐が再開される。北伐に押され、北京から撤退した北方軍閥の張作霖が、6月4日に日本軍(関東軍)によって爆殺された後(張作霖爆殺事件)、1928年6月9日には国民党軍の北京入城によって北伐完了が宣布され、同年10月10日、蔣介石は訓政の実施を発布し南京を首都とする国民政府が正式に成立した。一方で、満州ではソ連に挑んだもののソ連軍に圧倒された(中ソ紛争)。さらに同年12月29日には東北の張学良が易幟を行ない国民政府に帰順する。ここにおいて、中華民国は各地の軍閥や共産党勢力といった反抗勢力を抱えつつも、南京国民政府によって一応の全国統一をみたのである。
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