中国国民党草創期の活動
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1916年(民国5年)6月の袁世凱死後に、いったんは丁惟汾も衆議院議員として復帰した。しかし翌1917年(民国6年)、孫文(孫中山)が護法運動を開始したため、広州へ赴いてこれに合流している。1920年(民国9年)秋、上海において北方の中国国民党党員との連絡事務に従事し、さらに山東支部長を兼任した。1922年(民国11年)、孫の指示もあっていったん北京政府の衆議院議員に復帰する。同年9月、上海の国民党会議に出席し、孫が指示する党改組の意向に沿った党綱と総章の起草に丁も参加した。翌1923年(民国12年)、丁は北京で北京執行部を秘密裏に開設し、党勢拡大を図っている。また、同年に青島で膠澳中学を創設した。 1924年(民国13年)1月、丁惟汾は国民党第1期中央執行委員に選出され、翌月には党北京執行部党務主任兼北京分会委員となる。翌年3月に孫文が死去して後、丁は党会議の冒頭で孫の遺嘱を朗読することを提案し、これが党会議の慣例となった。1926年(民国15年)1月、第2期中央執行委員に再選され、党青年部部長に任ぜられる。1927年(民国16年)4月、張作霖が北京執行部等の国民党や中国共産党の機関を急遽摘発し、これにより李大釗らが逮捕された。この時、丁は偶然にも北京執行部に滞在しておらず、辛うじて危地を逃れた。 1927年(民国16年)秋、丁惟汾は中央党務学校校務委員会委員に任ぜられ、党員の訓練・育成事務に携わる。翌1928年(民国17年)2月、党2期4中全会で中央執行委員会常務委員・中央政治会議委員・訓練部部長・宣伝部部長代理の要職に就いた。この時、陳果夫と共に中央党部改組案を提出し、蒋介石の権力強化と汪兆銘(汪精衛)の排除を目論む。また、これ以降、丁はCC派寄りの人物と目されるようになった。1929年(民国18年)3月、引き続き第3期でも中央執行委員に選ばれ、中央党務学校を改組した中央政治学校で教育長となっている。
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