中国国民党統治下の台湾での呉鳳顕彰
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「呉鳳」の記事における「中国国民党統治下の台湾での呉鳳顕彰」の解説
戦後、台湾は日本領から中華民国台湾省となった。中華民国の最高指導者であった蔣介石は、陳儀を台湾省行政長官兼台湾省警備指令に任命し、陳儀に伴って中国大陸から台湾統治の人材として多くの官吏や軍人が渡って来た。陳儀は台湾の行政機関等の接収、再編を進め、1945年末には地方行政機関が再編され、続いて新しい地方行政機関の県長、市長が任命された。こうして台湾には中華民国の支配政党であった中国国民党の組織が浸透していく。 台湾を統治した国民党は、呉鳳を中国伝統の倫理観に合致するとして広く称揚するようになった。台湾における戦後の呉鳳の顕彰は早くも1946年に始まっている。台湾省の教育委員会は呉鳳を国民学校の教科書教材に採用し、嘉義でも中国大陸出身の市長であった宓汝卓らが呉鳳の顕彰を進めた。宓は呉鳳を蔣介石が唱えていた「力行哲学」の実践者であると称え、嘉義市では市内の主要道路の一つを呉鳳路と名付け、市の中心部に文化活動センターである呉鳳康楽区を設立し、そして1946年6月19日には、阿里山のツォウ族の主要集落である達邦を中心として呉鳳郷が設立された。 1947年には、嘉義の名産であったサポジラ(人心果)が呉鳳柿と名付けられた。更に宓汝卓嘉義市長は呉鳳の命日とされていた9月24日を、公務員節(公務員の日)とするよう台湾省政府に建議した。この建議の背景には、同年の2月28日に発生した二・二八事件があると考えられている。二・二八事件後、公務員に対する信頼が著しく低下した台湾において、自らの命をなげうって首狩りの悪習を止めさせた呉鳳に倣って、私心を捨てて公に奉仕するよう公務員に求める狙いがあったと見られている。結局この提案は、呉鳳の業績は一地方のものであって全国的なものではないということで、全国の公務員の記念日とするにはふさわしくないとの理由で受け入れられることはなく、呉鳳の命日を公務員節とする提案は実らなかった。 1951年10月に行われた蔣介石の阿里山訪問は、呉鳳の顕彰事業が更に加速するきっかけとなった。阿里山で呉鳳の話を聞いた蔣介石は嘉義県長の林金生に呉鳳廟の整備を命じたのである。1931年(昭和6年)の改築後、戦時体制の強化や終戦前後の混乱の中、呉鳳廟は荒れだしていた。蔣介石の命を受けた林金生は翌1952年に呉鳳廟の修建委員会を立ち上げ、改修工事が始まった。この時の改修で呉鳳廟に後殿が増築され、また代々呉鳳廟の管理に携わっていた家から廟の後ろに当たる土地が寄贈された。これは後に呉鳳記念園として整備される土地となる。1953年11月12日、改築成った呉鳳廟で林金生主催で落成式典が行われ、蔣介石から扁額が贈られた。 その後も呉鳳の顕彰事業は着々と進められていった。呉鳳がツォウ族によって首を狩られたと伝えられた場所には、1920年(大正9年)に呉鳳従難之碑が建てられていた。呉鳳廟の改築が終わると続いてこの呉鳳が亡くなったとの伝承がある地の整備が行われ、1955年、呉鳳従難之碑を撤去して新たに呉鳳公成仁紀念碑が建立された。呉鳳公成仁紀念碑の建立以降、この地は呉鳳成仁地と呼ばれるようになった。ところで呉鳳従難之碑の撤去と呉鳳公成仁紀念碑の建立作業中に人骨が発見された。この人骨は呉鳳であると見なされ、呉鳳の子孫も呉鳳が家に帰りたがっているものと考えたため、呉鳳の旧居裏山に呉鳳の墓が整備されることになった。1956年6月、当時、台湾省政府の主席を務めていた厳家淦が墓碑を揮毫し、墓碑の左右の柱には臨時省議会議長であった黄朝琴が揮毫した対句が刻まれた呉鳳の墓が完成する。なお、呉鳳の墓の建設には政府の援助がなされたと伝えられている。 1968年は呉鳳没後200年に当たるとして、その前から呉鳳の顕彰事業も活発化する。まず1967年に騎馬姿の呉鳳の銅像が嘉義駅前の広場に建てられ、台湾省主席の黃杰が像の除幕を行った。この頃、呉鳳の子孫が経済的な問題で就学困難であるとの話が知られるようになり、嘉義県では呉鳳の子孫の就学のために資金援助を行うようになった。1968年には嘉義県の各界で構成された呉鳳成仁二百年籌備委員会が発足し、記念誌の発行、嘉義県内の各種学校での呉鳳成仁二百年記念活動の実施など、各種の顕彰事業を実施した。 呉鳳の没後200周年記念の顕彰事業の後も呉鳳の顕彰は続いた。1974年には呉鳳廟内に陳列室が設けられ、1979年からは呉鳳廟風景観光特区計画がスタートし、呉鳳廟の規模拡大、そして前述の呉鳳廟の後ろの土地に呉鳳記念園が整備され、更に呉鳳成仁地の再整備も進められた。この時の呉鳳廟の改修によって建物は閩南式の伝統建築として装いを新たにし、廟の周辺も庭園化された。1985年9月9日、台湾省主席の邱創煥が主催者となって呉鳳廟の改修工事の落成と呉鳳記念園のオープンが祝われた。 そして1985年11月27日、呉鳳廟は中華民国国定第3級の古蹟に指定された。しかしこの頃には台湾原住民の中から後述する呉鳳神話打破運動が高まりつつあった。 なお、呉鳳は国民党の台湾統治時代においても映画化されている。国民党統治時代最初の映画化は1950年の『阿里山風雲』である。この映画は戦前の日本統治時代に制作された義人呉鳳のリメイク版であり、撮影隊が中国本土の上海からやって来て撮影を開始したところ、国共内戦が激化して上海に戻ることが出来なくなり、その結果として台湾で制作された最初の中国語長編劇映画となった。映画は制作側のみならず配役も全て中国人であり、台湾原住民は映画制作に関わることはなかったが、主題歌である「高山青」は台湾のみならず中国本土でもヒットし、現在でも台湾民謡の古典とされている。そして1962年にやはり義人呉鳳をリメイクした映画、『呉鳳』が制作される。『呉鳳』は宣伝要素の強い政治映画であったが、映画監督と主演男優を香港から、カメラマンと照明技師を東宝から招き、300名の台湾原住民が伝統舞踊を踊るシーンがあり、台湾原住民の専門家による監修も行われた。『呉鳳』は評判を呼んで蔣介石も鑑賞し、当時、台湾で制作された中国語映画で史上最高の売り上げを挙げた。
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