中国国民党統治下の台湾での呉鳳顕彰とは? わかりやすく解説

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中国国民党統治下の台湾での呉鳳顕彰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/25 07:27 UTC 版)

呉鳳」の記事における「中国国民党統治下の台湾での呉鳳顕彰」の解説

戦後台湾日本領から中華民国台湾省となった中華民国最高指導者であった蔣介石は、陳儀台湾省行政長官台湾省警備指令任命し陳儀伴って中国大陸から台湾統治人材として多く官吏軍人渡って来た。陳儀台湾行政機関等の接収再編進め1945年末には地方行政機関再編され続いて新し地方行政機関県長市長任命された。こうして台湾には中華民国支配政党であった中国国民党組織浸透していく。 台湾統治した国民党は、呉鳳中国伝統倫理観合致するとして広く称揚するようになった台湾における戦後呉鳳顕彰早くも1946年始まっている。台湾省教育委員会呉鳳国民学校教科書教材採用し嘉義でも中国大陸出身市長であった宓汝卓らが呉鳳顕彰進めた。宓は呉鳳蔣介石唱えていた「力行哲学」の実践者であると称え嘉義市では市内主要道路の一つ呉鳳路と名付け市の中心部文化活動センターである呉鳳康楽区を設立し、そして1946年6月19日には、阿里山ツォウ族の主要集落である達邦を中心として呉鳳郷が設立された。 1947年には、嘉義名産であったサポジラ人心果)が呉鳳名付けられた。更に宓汝卓嘉義市長呉鳳命日とされていた9月24日を、公務員節(公務員の日)とするよう台湾省政府建議した。この建議背景には、同年2月28日発生した二・二八事件があると考えられている。二・二八事件後、公務員対す信頼著しく低下した台湾において、自らの命をなげうって首狩り悪習止めさせた呉鳳倣って私心捨てて公に奉仕するよう公務員求め狙いがあったと見られている。結局この提案は、呉鳳業績は一地方のものであって全国的なものではないということで、全国公務員記念日とするにはふさわしくないとの理由受け入れられることはなく、呉鳳命日公務員節とする提案は実らなかった。 1951年10月行われた蔣介石阿里山訪問は、呉鳳顕彰事業が更に加速するきっかけとなった阿里山呉鳳の話を聞いた蔣介石嘉義県長金生呉鳳廟の整備命じたのである1931年昭和6年)の改築後、戦時体制強化終戦前後混乱の中、呉鳳廟は荒れだしていた。蔣介石の命を受けた金生は翌1952年呉鳳廟の修建委員会立ち上げ改修工事始まった。この時の改修呉鳳廟に後殿増築され、また代々呉鳳廟の管理携わっていた家から廟の後ろに当たる土地寄贈された。これは後に呉鳳記念園として整備される土地となる。1953年11月12日改築成った呉鳳廟で金生主催落成式が行われ、蔣介石から扁額贈られた。 その後呉鳳顕彰事業着々と進められていった呉鳳ツォウ族によって首を狩られたと伝えられた場所には、1920年大正9年)に呉鳳従難之碑が建てられていた。呉鳳廟の改築が終わると続いてこの呉鳳亡くなったとの伝承がある地の整備が行われ、1955年呉鳳従難之碑を撤去して新たに呉鳳公成仁紀念碑が建立された。呉鳳公成仁紀念碑の建立以降、この地は呉鳳成仁地と呼ばれるようになった。ところで呉鳳従難之碑の撤去呉鳳公成仁紀念碑の建立作業中に人骨発見された。この人骨は呉鳳であると見なされ、呉鳳の子孫も呉鳳が家に帰りたがっているものと考えたため、呉鳳旧居裏山呉鳳の墓が整備されることになった1956年6月当時台湾省政府主席務めていた厳家淦墓碑揮毫し、墓碑左右には臨時省議会議であった黄朝琴揮毫した対句刻まれ呉鳳の墓が完成する。なお、呉鳳の墓の建設には政府援助なされた伝えられている。 1968年呉鳳没後200年に当たるとして、その前から呉鳳顕彰事業活発化する。まず1967年騎馬姿の呉鳳銅像嘉義駅前の広場建てられ台湾省主席の黃杰が像の除幕行ったこの頃呉鳳の子孫が経済的な問題就学困難であるとの話が知られるようになり、嘉義県では呉鳳の子孫の就学のために資金援助を行うようになった1968年には嘉義県各界構成され呉鳳成仁二百年籌備委員会発足し記念誌発行嘉義県内の各種学校での呉鳳成仁二百年記活動実施など、各種顕彰事業実施した呉鳳没後200周年記念顕彰事業の後も呉鳳顕彰続いた1974年には呉鳳廟内陳列室が設けられ1979年からは呉鳳風景観光特区計画スタートし呉鳳廟の規模拡大、そして前述呉鳳廟の後ろ土地呉鳳記念園が整備され、更に呉鳳成仁地の再整備進められた。この時の呉鳳廟の改修によって建物閩南式の伝統建築として装い新たにし、廟の周辺庭園化された。1985年9月9日台湾省主席の邱創煥が主催者となって呉鳳廟の改修工事落成呉鳳記念園のオープン祝われた。 そして1985年11月27日呉鳳廟は中華民国国定第3級の古蹟指定された。しかしこの頃には台湾原住民の中から後述する呉鳳神話打破運動高まりつつあった。 なお、呉鳳国民党台湾統治時代においても映画化されている。国民党統治時代最初映画化1950年の『阿里山風雲』である。この映画戦前日本統治時代制作され義人呉鳳リメイク版であり、撮影隊中国本土の上海からやって来て撮影開始したところ、国共内戦激化して上海に戻ることが出来なくなりその結果として台湾制作され最初中国語長編劇映画となった映画制作のみならず配役全て中国人であり、台湾原住民映画制作関わることはなかったが、主題歌である「高山青」は台湾のみならず中国本土でもヒットし、現在でも台湾民謡古典とされている。そして1962年にやはり義人呉鳳リメイクした映画、『呉鳳』が制作される。『呉鳳』は宣伝要素の強い政治映画であったが、映画監督主演男優香港から、カメラマン照明技師東宝から招き300名の台湾原住民伝統舞踊を踊るシーンがあり、台湾原住民専門家による監修行われた。『呉鳳』は評判呼んで蔣介石鑑賞し当時台湾制作され中国語映画史上最高の売り上げ挙げた

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