中国国民党での台頭と失脚
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1924年(民国13年)1月、許崇智は国民党の第1回全国代表大会に出席し、中央監察委員・中央執行委員会軍事部長に選出された。その後、許崇智の軍は建国粤軍に再編され、許崇智は同軍総司令兼第2軍軍長に、蔣介石は第2軍参謀長にそれぞれ任命された。1925年(民国14年)1月、許崇智率いる粤軍と蔣介石率いる黄埔軍官学校学生軍は、東江の陳炯明を攻撃し、3月までに陳炯明の勢力を完全に掃討した。孫文死後の6月、広西軍の劉震寰・雲南軍の楊希閔が反乱すると、許崇智と蔣介石はこれをも殲滅している。 同年7月1日、広州で国民政府が成立すると、許崇智は国民政府常務委員兼軍事部長に就任し、さらに広東省政府主席、同軍事庁長までも兼ねた。8月20日に廖仲愷が暗殺されると、汪兆銘(汪精衛)・許崇智・蔣介石の3人で構成される特別委員会が組織され、これが政治・軍事の全権を握った。しかし9月になると、蔣介石は汪兆銘の支持を取り付けた上で、電撃的に許崇智の側近を逮捕し、その配下の軍を武装解除してしまう。こうして、許崇智は国民党内での指導的地位を喪失したのである。 これ以後の許崇智は、国民党長老としての声望や地位は有したものの、もはや国内の政治・軍事に重大な影響を与える存在ではなかった。国共内戦の後に香港へ移り、「第三路線」を標榜する活動を続けた。 1965年1月25日、心臓病により死去。享年79(満77歳)。
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