中国国家社会党の結成
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1931年(民国20年)9月に張君勱は帰国し、燕京大学で教授を務める。翌1932年(民国21年)4月16日、張東蓀らと中国国家社会党を北平で秘密裏に結成し、5月には機関紙『再生』を創刊した。フィリップ・シャイデマンに影響を受けてた張君勱は国家社会党で「国家社会主義」を標榜して、「絶対的愛国主義」、「漸進的社会主義」、「修正された民主政治」などの主張を展開、階級観念や暴力革命を否定している。1933年(民国22年)4月、国家社会党は第1回代表大会を開催し、張君勱は中央総務委員会総秘書に選出された。張君勱は反蔣介石活動を続行して、山西省の閻錫山から支援を受け、さらに福建事変が勃発すると、福建人民政府にも参加している。 その後、張君勱は広東省に移り、中山大学哲学系教授となるが、「反動的思想」とみなした学生の反発を受け、半年で辞任に追い込まれた。1935年(民国24年)、広東の実力者陳済棠の招聘を受け、陳済棠が創設した学海書院で職についたが、翌年夏に陳済棠が反蔣蜂起に失敗、失脚したために書院は閉鎖されてしまう。
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