国家社会党
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明治38年(1905年)8月には、斯波貞吉、中村大八郎らと「国家社会党」を創立した。その宣言書には、古代における我国の皇室が或る意味における社会主義の実行者であると説き、「我国民は宜しく皇室の力に依りて官費の専横を抑制すべし」と論じた。 明治39年(1906年)3月には旧友の堺利彦がつくった日本社会党と共同戦線を張って、東京市内電車の電車賃値上反対運動をおこなったが、国家社会党はこれだけで自然消滅したようである。同年6月には『社会主義管見』を発表したが発禁となった。国体論と社会主義の野合として、北一輝は痛烈な批判を加えている。 明治40年(1907年)、『支那思想史・日漢文明異同論』を発表。
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