民盟への参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 09:57 UTC 版)
1937年(民国26年)、日中戦争(抗日戦争)勃発を受けて、張君勱は蔣介石が開催した廬山談話会、国防参議会に参加し、反蔣路線を転換した。翌1938年(民国27年)4月、国家社会党は正式に公開政党となっている。1939年(民国28年)9月、張君勱は国民参政会憲政期成会委員となり、憲政施行のための準備作業にとりかかった。同年11月、黄炎培らが発起した統一建国同志会に、張君勱は国家社会党を代表して加入している。翌1940年(民国29年)10月には、雲南省大理において陳布雷らと協力して民族文化学院を創設、張君勱が院長となっている。 1941年(民国30年)4月、皖南事変の勃発を受け、国共両党から距離を置く第三勢力の立場を明確にするために、統一建国同志会は中国民主政団同盟に改組され、張君勱は常務委員に任ぜられた。1944年(民国33年)9月、民主政団同盟はさらに中国民主同盟(民盟)に改組され、引き続き張君勱は常務委員を務めている。1945年(民国34年)4月、1945年(民国34年)4月、張君勱はサンフランシスコ会議に中国代表団代表の一人として派遣され、国連憲章起草にも参加した。
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